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御殿の場 武家の習い、八汐、千松へとどめを刺す
栄御前は政岡の表情を見続けていた。可愛い我が子が、目の前で妹の八汐ごときに嬲り殺しにされているのに、政岡は若君鶴千代に、千松が嬲り殺しされる姿を見せまいと、必死で抱き締めていた。千松の頭がガクリッと、垂れ下がったのを見た栄御前が、「八汐、千松への仕置はもう良いであろう、其処までに致せ。されど、武家の習いじゃ、不埒ものの千松ではあるが、懐剣でとどめを刺せい!と命じた。
その声に気を取り直した八汐が、懐剣を千松の喉首から引き抜いた。とどめを刺すべく握り直した、懐剣の切っ先を千松の心の臓の上にあてがい、無言で懐剣で突き刺した。更に力を籠めてもうひと突きして、深く刃が差し込まれた、哀れ五歳の幼子、千松は八汐の懐剣に依って絶命したようにみえた。しかし千松の傍らにいた八汐には、未だ千松が動いているかに感じた。それを見て八汐は何を思ったか、すくっと立ち上がり、千松を見ながら、「こりゃ千松、妾の刃に苛まれた気分はどうじゃったかいのう。これから本当のとどめを、この八汐が刺そうわいなぁ。」と言って、「栄御前さま、お願いがござりまする。管領家名代であられる御前さまの御懐剣を、お借りしとうござりまする。この八汐の手で千松のとどめ刺しを、お許しくだされ。千松も武士の子、その御懐剣でとどめを刺されれば、本望かと存じまする。」
栄御前は、突然の八汐の申し出にも頷き、自分の帯に手挟んだ懐剣袋から、蒔絵の懐剣を鞘ごと抜き取り、「八汐、この懐剣で千松のとどめ刺しを許す。頼むぞえ」、と、八汐に差し出した。八汐は、栄御前から懐剣を受けとった。そして裾引きの、ふきを翻しながら、千松の身体に跨り馬乗りになった。「千松、この八汐が御前さまの御懐剣でそなたを黄泉の国へ旅立たせる。覚悟しや!」と
懐剣を鞘から抜いて両手で柄を握り、振り上げながら「不埒者の千松、御前さまの情けじゃ。八汐がとどめを刺すわいのお。覚悟お!」と更に叫びながら、千松の喉元に向けて突き刺した。その瞬間「ううっ」と千松のか細い声と、小さく身体が震え、そして力強く握っていた拳が開き絶命した。八汐は更に「よくもわしの白綸子の着物を、そなたの血で汚してくれたな。わしの恨みを思い知れ!」と首にとどめを刺し、鋭い懐剣の刃が頚動脈を切って千松は絶命した。
八汐が行った御前さまの懐剣による、とどめ刺しの時間は、この場にいる皆には長く長く感じた。
政岡の打掛の中に隠れている鶴千代君も、八汐と栄御前の声と、千松の苦しむ声は聞こえており、身体が震えていた。政岡はその震えを感じ取っていた。
八汐が勝利の勝鬨を揚げる様に、幼児の命を奪って血に染まった懐剣を宙に突き上げた。そして八汐は、御前の懐剣から血の滴りを懐紙で拭い、刃を鞘に戻し、「御前さま、これにて不埒もの千松の始末は、あい済みましてござりまする」
八汐から懐剣を受け取った栄御前は、「八汐、大儀であった、」、と褒め、懐剣の鞘を自らの懐剣袋に収め、房紐を巻き直し、薄茶色の掛下に巻く金襴の帯に差し込んだ。八汐は続けて、千松を甚振り、なぶり殺しにして、千松の血潮がついた自らの懐剣の刃を、懐紙で拭き取り、自らの帯に手挟んである懐剣の鞘に収め、懐剣袋の房紐を巻き直した。
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