叫びたい男

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私はある病気を抱えていた。 一種の精神疾患なのだろうか。 静かな場所に行くと、どうしようもなく叫びたくなる衝動に駆られ、それを理性で何とか押さえながら生活している。 その症状は咳することすら憚られるようなシーンと静まり返った場所で現れ、人口密度が高ければ高いほど顕著となる。 逆を言えば、いくら静かでも誰もいないような場所では全く起こらないのだ。 よくストレスが溜まると叫びたくなると言うが、それとは根本的に何かが違う。 精神状態は影響していない。 そんな私は今朝から緊張感に包まれていた。 何故なら、友人に頼まれて関東交響楽団のクラシックコンサートに同行する事になっているからだ。 もちろん、私は自分の持病(叫びたくなる病)の事が気になり何度も断った。 しかし友人は、 「君は考えすぎなんだ」 と笑うだけで私の話しを聞いてくれなかった。 「他に行ってくれる者がいない」 泣きつく友人に根負けし、とうとう行く事になってしまった。 コンサートは初めてだが大丈夫だろうか。 不安が心をよぎった。 巨大な会場は満席だった。 大勢の人間がいるのにも関わらず、騒ぐ者などいない。 皆、小声でヒソヒソと話し、時折パンフレットをめくるパラパラとした音が聞こえる。 開始時間になると幕が開いた。 静まり返った中、高級な楽器達が上品な音色を奏で始める。 私は何も考えないようにしたり、必死に違う事を考えようとするのだが時間が経つにつれ喉元がモゾモゾしてきたのだった。 特に危険なのは、静かな曲調が続いた時だ。 〈大声をあげて、この静寂を切り裂きたい!〉 そんな感情が、まるで胃から食道をニョロニョロと登ってくる蛇のように喉元に迫ってくる。 押し出されようとしている声を溜まってくる唾と一緒に飲み込む。 ゴクリ。ゴクリ。 チョビチョビとお茶を飲んでいるかのように喉仏が動き続ける。 〈落ち着け。 落ち着くんだ〉 私は痛みで気を逸らそうと、右手で左手の甲を何度もつねった。 しかし交感神経が優位になっているからだろうか。 全く痛みが伝わってこない。 仕方ないので、赤みを帯びてきた手の甲に伸びかかっている爪をたてる。 しかし声を出したい欲求は、そんなものでは押さえきれない。 「はぁはぁはぁ」 だんだん呼吸が荒くなる。 左隣に座っていた上品そうなご婦人が私の異変に気付いたのか、こちらをチラチラと見ている。 〈ああ、もう限界だ〉 無理やり連れてこられたとは言え、友人に恥を欠かせては申し訳ない。 この状態を友人に伝えようと右横を向いたが、彼は窮地に陥っている私の事などお構いなしに名曲に耳を傾けて聴き入っている。 その時突如、激しい演奏に変わり、おかげで私の興奮は少し治まった。 〈助かった〉 私はここぞとばかりに深呼吸をして呼吸を整えた。 〈よし。 このまま、フィナーレまで騒がしい曲が続けば何とかなる。 あと30分程度で終わるはずだ〉 祈るような気持ちで両手を握りしめる。 緊張からか、手のひらは汗でジトジトと湿っている。 途中、危ない箇所があったものの何とか全ての演目が終了するまで、声が飛び出るのを押さえ込む事が出来たのだった。 ソデから指揮者が出て来て挨拶をした。 〈やっと終わる……〉 パチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチパチ。 なりやまぬ拍手。 もしやこれは……。 アンコール……!? そして、再び演奏が始まった。 深い湖の底を感じさせるような静かな曲が会場に流れる。 口の中はカラカラ、もう飲み込む唾もない。 身体中が震えるのを感じる。 もう押さえきれない。 友人に対する思いも、羞恥心も、全て飛んでいった。 私の唇は少しずつ開き、喉の奥に力が入る。 「あ」 私の口から声が漏れたその時だった。 「あああああああぁ!!!!! 静かすぎるうぅ!!! 耐えられないのよおぉ!!!」 隣のご婦人が立ち上がり、両耳を押さえるように、のけ反りながら叫んでいた。 静寂は切り裂かれ、演奏は止まった。 観客がザワザワとしながら、こちらに視線を向けている。 彼女の隣に座っていた男性がハンカチで必死に、そのご婦人の口を押さえている。 「すみません! 妻は病気なんです!」 何とか自力でハンカチで口元を押さえたご婦人は、ご主人に支えられながら会場から出て行った。 放送が流れアンコール演奏は中止となり、観客達は席を立ち始めた。 友人が心配そうに言った。 「こんな事になって、あの女性はいたたまれない気持ちだろうな。 大丈夫かなぁ」 「きっと大丈夫さ……」 私は確信を持って、そう言った。 なぜなら、叫んだ時の彼女の口角が上がっていたからだ。 その口角からはヨダレが垂れ、光っていた。 まるで快感に酔いしれるように目をつぶって、ご主人の腕の中に倒れ込んだのだ。 きっと彼女も私と同じ病。 彼女は一体どんなエクスタシーを感じたのだろうか……。 あんなに人がいるところで叫んだら、自分はどうなるのか……。 押さえきれない興味が、私の思考を支配する。 帰り道、私はヨーロッパで有名な楽団のクラシックコンサートを予約した。
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