バレンタインには買い物を。

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バレンタインには買い物を。

df39b74d-3f4a-4a39-95f0-4a038e61c49c  設楽尊(したらみこと)の携帯電話が着信を告げたのは、午後になったばかりの時間の事だ。胸元から電子機器を抜き出せば、虫の羽音にも似た音が微かに耳に届く。  相変わらず運転が駄目な匡成のために、事務所から迎えに出てきた設楽である。液晶画面に表示された「真崎(まさき)」という文字に、設楽の眉が僅かに上がった。  ――珍しいな。  仕事をしている時間帯に真崎から連絡が入るのは稀な事だ。つい反射的に通話ボタンをスライドさせそうになった設楽ではあったが、その手はすんでのところで停止した。  目の前には、辰巳匡成(たつみまさなり)が居る。  別段私用電話を咎められる事もないのは分かりきっている。だが、生来の生真面目な性格のせいか設楽は未だ振動している電話を胸元へと戻した。 「出ねぇのか」 「いや…はい…」  唐突に聞こえてきた声音に、設楽は僅かな動揺を隠せなかった。  匡成の笑みが深くなる。 「クソ真面目な坊やからの電話くらい出てやったらどうだ?」  ニヤニヤと、それこそ嫌がらせのような笑みを纏わせて匡成が言う「クソ真面目な坊や」とは、何を隠そう真崎の事だ。  さらりと相手を言い当てられても驚きはしなかった。こういう時の匡成の嗅覚は、右に出る者がいないと言っていいほどに鋭い。 「仕事中ですから。後で折り返しますよ」 「はん? 俺に聞かれたくねえって顔にしっかり書いてあるぞ」 「まあ、そうですね」  否定せずに頷けば、匡成がつまらなそうに鼻を鳴らして書類へと目を戻すのと同時に胸元の振動は途切れた。 「はぁん…そうか」  得心がいったとばかりに呟きながら、匡成が落としたばかりの視線を上げる。その顔にありありと浮かぶ揶揄いの色に、設楽は内心で溜息を吐いた。  案の定、次いで聞こえてきた匡成の声はさも可笑しそうな響きを帯びて設楽の耳へと流れ込んだ。 「そういや今日はバレンタインだったよなぁ?」 「……勘弁してください」 「確か去年お前、女から受け取ってなかったか?」 「まぁ…」  受け取るどころか匡成へと貢がれたチョコレートをも押し付けられた設楽である。が、当の匡成はそんな事などすっかり忘れた様子で呟いた。 「アレは嫉妬しねえのか」  人様の恋人をアレ呼ばわりするのは如何なものか…と、思いはしても口に出せない設楽は匡成を静かに見返した。 「叔父貴のお相手ほどじゃあないですよ」 「ありゃ異常だ。一緒にすんじゃねえ」  顔を顰めつつもどこか穏やかな雰囲気を纏う匡成に、設楽は小さく笑った。 「異常は言い過ぎでしょう。雪人さんほど叔父貴を想ってる人は居ませんよ」 「あぁ? そりゃあお前、俺より雪人の肩持つって意味か」 「親父じゃないんですから子供じみた言い方しないでください」  可愛げもない拗ね方をする匡成を一刀両断し、設楽が腰を上げる。 「車を回してきます。そろそろ出ないと待ち合わせの時間に遅れますよ」 「なんだ、もうそんな時間か?」  よっこいせと怠そうに腰をあげる匡成に苦笑を漏らし、設楽は部屋を後にした。  匡成を待ち合わせの場所まで送り届けた(のち)に設楽が向かったのは、都内にあるマンションだった。車を地下の駐車場に突っ込み、エレベーターで真崎の自宅…否、設楽自身の自宅でもある部屋のあるフロアへと向かう。  帰ったところで真崎はまだ仕事をしているであろう時間。設楽の手には、真崎のために作ろうと買ってきたチョコレートケーキの材料が入った買い物袋がぶら下がっていた。  ――どんな顔をするか、見ものだな。  一年前、匡成に押し付けられたチョコレートを持ち帰った設楽に嫉妬の色を浮かべた真崎の顔が脳裏を過ぎる。普段は滅多に見せることのない表情を思い返せば、手間を掛けるのも悪くはないと思った。  設楽は荷物をカウンターに置き、ジャケットを脱ぎながらダイニングテーブルへと歩み寄った。椅子の背に無造作に掛けられたエプロンを取り上げて、代わりにジャケットを掛ける。  外食よりも家食を好む設楽と真崎の自宅のキッチン。カウンター式のそこに立ち、設楽は思わず苦笑を漏らした。  ――早いものだな。  真崎と出会った当初の設楽は、同じ屋根の下で暮らす事になるとは思いもしなかった。  同棲のきっかけはそれまで設楽の住んでいたアパートの取り壊しではあったが、その話を聞いた時、自然と真崎と二人で住める住居を思い描いた設楽である。まぁ、現実はと言えば、設楽よりも先に真崎の方から同棲の話を持ちかけられるという、設楽としては何とも締まりのない結果ではあったのだが。  ともあれ年明け早々の新居探しもとんとん拍子に進み、もはや運命とでも言うかのように互いの職場からほど近い今現在のマンションへと越した設楽と真崎である。  もとより独身の男が一人で住まうには広すぎる部屋に住んでいた真崎の住居にそのまま転がり込む事も出来はしたが、当の真崎が首を縦には振らなかった。狭いと、そう言って。  あれから一年と少し。以前とは比べものにならないほど広々としたキッチンは、百九十を超える長身の設楽の体格をもってしても、まだ余裕がある。  ――以前は手を伸ばせば何でも届くところにあったものだが…。  今や影も形も無い古いアパートの台所を思い出せば、僅かに懐かしさが込み上げた。  思い出…といえば聞こえはいいが、ただ匡成のマンションに近いという理由だけで選んだ部屋は、周囲の高層マンションのせいで日当たりも悪く、それはもう冬は凍えるほどに寒かったのを思い出す。視線を窓に向ければまだ午後も早い時間の、これから夕日に染まるだろう新宿の街並みを見下ろす現在の住居とは、まさに天と地ほどの差がある。  再び苦笑を一つ漏らし、設楽は準備に取り掛かった。    ◇   ◇   ◇  午後六時。静かな部屋に響いたメールの着信音に設楽はカウンターから携帯を取りあげた。「これから帰ります」と、簡潔に用件だけを告げる文面に「気をつけろ」と短い返事を返す。  真崎の職場からマンションまでは、車であれば十分もかからない距離だ。食事にするには些か早い時間に、設楽はジャケットを再び羽織るとエレベーターで駐車場へと降りた。 「尊…?」  エレベーターの扉が開いた瞬間、タイミング良く鉢合わせた真崎の目が僅かに見開かれる。 「おかえり」 「わざわざ出迎えてくださったのですか?」 「いや、出掛けようと思ってな」 「そうですか。お気をつけていってらっしゃいませ」  普段と変わらぬスーツを纏った設楽を仕事か何かと勘違いしたのだろう。おとなしく見送る気でいる真崎に設楽は小さく笑った。 「お前とだ」 「……わたくしと…ですか?」 「行くぞ」  あまりの珍しさに事情が呑み込めず、立ち尽くす真崎の腕を設楽は引いた。今しがた真崎が乗ってきたであろう車の前で手を差し出せば、品の良いキーケースが差し出される。  コンクリートが剥き出しの駐車場に開錠の電子音がやけに大きく響く。助手席へと回り込んだ設楽はドアを開けた。 「乗れ」  見ず知らずの人間が見たならば確実に誤解されそうな構図ではあるが、当の本人たちはまったく意に介しはしなかった。  助手席へと乗り込みながら真崎が微笑む。 「ありがとうございます」  設楽は大きな躰で屈みこむと、座席に座り、かなり低くなった真崎の額へと短く口づける。それはほんの一瞬の出来事で、すぐさまドアを閉めてしまった設楽は助手席で僅かに頬を染めた真崎が己の額に触れている事になど気付きもしなかった。 「どこへ行かれるのですか?」  地上へと車が出たところで真崎が問いかける。ステアリングを握った設楽は、ちらりと視線だけを真崎へと向けた。 「どこか、行きたい場所はあるか?」  質問に質問で返された真崎はくすりと笑みを零し、設楽に目的地などないという事を悟った。 「そうですね…」  しばし考え込むそぶりを見せて、真崎はふと顔をあげた。その顔が、ほんのりと赤く染まっている。 「お時間があるのでしたら、買い物に付き合っていただけないでしょうか」 「買い物?」 「はい。ちょうど、尊へのバレンタインのチョコレートを買いに行こうと思っていたところです」  果たしてそれは本人と一緒に買いに行くものなのか? と、設楽が内心で思ったことは言うまでもない。だがしかし、真崎の顔に浮かぶ嬉しそうな表情みれば断ることなど出来はしなかった。  それが、この後設楽自身に厄災をもたらす事になろうとは、想像もしていなかったのである。    ◇   ◇   ◇ 「ちょっと待て……」 「はい?」  立ち止まり、振り返る真崎の向こうに見える光景に、設楽はそれ以上足を踏み出す勇気を持てなかった。そこかしこに散らばるハートをモチーフにした装飾。圧倒的な女性率。きゃいきゃいと甲高い笑い声の響くそこに、足を踏み入れる勇気など設楽にはない。 「どうかなさいましたか? 尊」  小首を傾げる真崎に驚愕を覚え、設楽は引き攣った口許を動かした。 「お、俺は…外で待って…」 「何を言っているんですか尊! わたくしの買い物に付き合ってくださると仰ってくださったではないですか!」  逃がしはしないと、一瞬にして戻ってきた真崎が設楽の腕を捕らえる。振り解く気になればすぐに解ける腕。がっしりと掴まれたそれを振り解くべきか否か、設楽は本気で悩むこととなった。 「待て…真崎…っ」  些かならず焦りのこもる設楽の声に、真崎の腕がするりと落ちる。俯いた真崎の黒髪を見つめ、設楽は困り果てるしかなかった。 「真崎…」  何をどう告げればいいのか分からず、名を呼ぶことしか出来ずにいれば、次の瞬間真崎の顔がぱっと上がる。 「冗談ですよ、尊。申し訳ございません、悪ノリが過ぎましたね」  にこりと微笑み、少し待っていてくださいと、そう言って踵を返す間際の真崎の表情を見逃す設楽ではなかった。  無意識に、腕が伸びる。 「尊…?」 「いや…その…」  引き留めたところでどうする事も出来ないのは設楽にも分かっている。けれど、どうしてもそのまま行かせる気にはなれなかった。  ――いったい俺は何をしてるんだ…。  くだらないと、そう思う。  元より体躯と職業のおかげで自身が目立つのはわかり切っている。それなのに他人の目を気にする必要がどこにあるのか。 「今回だけだからな」  いくら人様の目を気にしないと言えど、わざわざ目立つのなど御免である。それでなくとも百九十を超える設楽は自身の存在感を自覚しているのだ。 「本当に…よろしいのですか?」 「お前が連れて来たんだろうが」 「それはそうですが…躊躇なされていらっしゃるのなら無理にとは…」 「お前こそ、後悔しても責任は持たんぞ」 「後悔など滅相もない。尊が側に居てくださるだけで、わたくしは幸せなんですよ?」  するりと腕を絡ませた真崎を見下ろし、設楽はゆっくりと足を踏み出した。  ふたりが売り場へと近づくだけで、それまでとは違うざわめきが周囲の空気を変える。避けるように慌てて退く女性たちに、真崎は小さな笑い声をあげた。 「何だか、変な気分ですね」 「だから言っただろうが」 「これはこれで楽しいと言ったら、女性に失礼でしょうか」 「悪趣味な奴だな」 「尊は心配してくださいましたが、わたくしは、こういった反応には雪人(ゆきひと)様や甲斐(かい)様のおかげで慣れているんですよ」  確かに雪人も甲斐も目立つ容姿をしている。まして甲斐には、隼人(はやと)というコブが付いているのだ。女性に騒がれないはずもない。 「俺とじゃあ違うだろうよ」  人目を引くにしても質が違うとそう言えば、真崎は可笑しそうに笑った。 「尊のような優しい方を怖がるなんて、彼女たちは見る目がないですね」 「馬鹿な事を言ってないでさっさと用事を済ませろ。これ以上目を引くのは御免だ」  熱くなりかける顔を背けて素っ気なく告げれば絡んだ腕がきゅっと締まる。 「ありがとうございます、尊」  計らずも上目遣いに見上げる真崎の顔に、設楽がクリティカルヒットを食らった事は言うまでもない。設楽は自身の大きな手で顔面を覆った。 「勘弁しろ」  指の隙間から漏れる呻き声が、なんとも情けなく自身の耳に届いた。
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