バレンタインには花束を。

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バレンタインには花束を。

5ab1584c-6ce2-426b-95c3-2ef941b22b5c  二月十四日。設楽要(したらかなめ)は職場に着いた瞬間に面食らう事となった。香港にあるメンズスーツ専門店『plate』。その事務所でのことだ。 「え? は?」  人けのない事務所に、要の素っ頓狂な声が響く。デスクの上には見た事もないような巨大な薔薇の花束が鎮座していた。  思い当る節は、今日がバレンタインデーであるという事だけ。  ――だからってこれはデカすぎだろぉ!? 何本あるんだよこれ?  恐る恐る花束を持ちあげてみれば、ずっしりと腕へと掛かる重みに要は口許を引き攣らせた。 「おっも…」  それは、九十九本の深紅の薔薇。  ひぃふぅみぃよ…と、薔薇の数を数え始めた要だが、早々に数えるのを諦めた事は言うまでもない。  花束をデスクの上に戻し、要は乾いた笑いを零した。揺れた拍子に薔薇を包み込んだラッピングの隙間から、これまた深紅のカードが滑り落ちる。要の指先が二つ折りの小さなカードを持ちあげた。 『St Valentine's Day』  カードを開けば、紅い下地にシルバーの文字が浮かんでいる。 「バレンタインって……チョコレートじゃないの…?」  劉からのチョコレートを少しだけ、否、かなり期待していた要だっただけに、花束というのは意外過ぎた。というよりも、去年までは確かに劉からチョコレートを貰っていた要である。  何故に今年は花束なのかと考え込んでいれば、出勤して来たスタッフの挨拶が聞こえて要は現実へと引き戻された。 「おはようございます、店長」 「あ、ああ。シュウさん、おはよう」  シュウの視線が振り返る要を通り越して、花束へと注がれるのが分かる。 「これはっ、その…っ」 「ああ、今日はバレンタインですね」  慌てる要とは裏腹に、シュウは至極当然といった反応を返した。 「今夜は、食事に誘われましたか?」 「あ、うん。これってこっちでは普通の事なのかな」 「そうですね」  日本人の要が支店長に就任してから三年。スタッフたちは皆、日本と香港の文化の違いに慣れない要をサポートしてくれる。 「天長地久(てんちょうちきゅう)と言って、香港では永遠を意味する九十九本の薔薇をバレンタインに恋人に贈るんですよ。まあ、おかげでこの時期は薔薇の価格が高騰するので、実際に九十九本の薔薇を贈る男性は少ないですけどね」  代わりに他の意味を込めて贈る薔薇の本数を決めるのだと、親切に教えてくれるシュウではあったが、要の声がそれを遮った。 「待って。今男性って言った!?」 「え? ああはい。日本は違うんですか?」 「あ、うん。日本は女の子がチョコレートを贈るのが主流かな…」 「へえ」  感心したようなシュウの声を聞きながらも、しかし要の疑問は晴れなかった。  ――そもそもなんで職場なんだよっ!? こういうのってもっとこう…二人きりで雰囲気のある場所で渡すとか、そういうもんじゃないの!?  要がどう思おうとも理由はただひとつ。職場に薔薇を贈らせることで自らの愛され度を周囲にアピールするという、いわばこれは香港女子の常識であり、水面下では熾烈な女の戦いが繰り広げられているとかいないとか。  ともあれそんな香港女子の常識などつゆ知らぬ要には、突然職場に薔薇を贈られても困惑するだけである。…という事に、(リュウ)は気づいていなかったのだ。  ――てか、どうすんのこれ…。  男の要をもってしても些か重量オーバーな気がする巨大な花束を前に、項垂れる以外に何が出来るというのだろうか。  ――香港の女の子すげーな。これ持って帰るの…?  実際に九十九本の薔薇を贈る男はそういないというシュウの言葉など、要の頭からは綺麗さっぱり吹き飛んでいた。    ◇   ◇   ◇  巨大な花束をさてどうやって持って帰ろうかという要の心配は、終業時間になって現れた劉の部下によって無事解決される事となった。「お持ち致します」と、丁寧に花束を抱え上げて歩くスーツ姿の後ろをとぼとぼとついて行けば、見慣れた劉の車へと辿り着く。  迎えに来た男とはまた別に、ドアの横にもうひとりスーツ姿の男が要を出迎えた。 「おかえりなさいませ、要様」 「えっと…ただいま…?」 「劉様は少々遅れるとの事で、先にお連れするよう申し付かっております」 「あ、そうなんだ。よろしくお願いします」  ぺこりと頭を下げる要の姿に、無表情だった男の顔が僅かに緩んだ気がした。  ドアを開けてもらい、閉めてもらい、それはもう至れり尽くせりと言って良い待遇に、要は未だに慣れることが出来ない。  ――そういえば辰巳さんも何でも部下の人にさせてたっけ…。  ふと日本で知り合った辰巳一意(たつみかずおき)を思い出し、そして要は(かぶり)を振った。  ――いやいやいや。煙草に火も点けさせようとするし、躰も拭かせようとするし、あの人は別格。一緒にしたらダメな気がする…。  今でこそ香港マフィアなどという一般とはかけ離れた職業の劉と付き合ってはいるが、要は元々ごく普通の大学生だった。いやむしろ、平々凡々といっても過言ではないくらいの一般人であった筈である。  ――後悔してる訳じゃないけど、予想外っていうか…予想外…?  すぐさま地上に走り出た車の窓から香港の街並みを改めて眺めてみれば、随分遠いところまで来てしまったような気がした。  ――飛行機ですぐに帰れる距離…なんだけどなぁ…。  物理的な距離の問題ではないのだが、生まれ故郷の日本を思い出せば、要の脳裏に真っ先に浮かぶのはその程度の事だった。  流れていた景色が止まり、目的地に到着したことを知る。すぐさまドアの前に立つスーツ姿に遮られる直前に要が見たのは、香港でも指折り数えられる超高級レストランばかりが入ったビル。観光客は当然、地元の人間でも予約が困難とメディアに取り上げられること数知れず。世情にあまり興味のない要でさえも名前くらいは聞いたことがある有名店だ。 「お待たせいたしました、要様」 「うん、ありがと」  入口のすぐ目の前に付けられた車から降り立てば、そこにガラスがあるのかどうかさえ分からないほどに磨き上げられたドアをスタッフが開く。 「お待ちいたしておりました。設楽様」 「あ、はい…ありがとうございます」  こういう時、何といって返せばいいのかが未だに要にはわからない。  ――劉は、ものすっごく普通に頷いて通り過ぎちゃうけど…。俺がやってもサマになんないんだよなー…。  劉にしても辰巳にしても、要の周りには一般人とはかけ離れた人間が多すぎる。要を香港へと赴任させてくれた『plate』のオーナー、須藤甲斐(すどうかい)(しか)り、ハヤト然り。ついでにフレデリックまでをも思い出して、要は小さな溜息を吐いた。  ――駄目だ…、見習えるような相手がいない…。  いったい何をどう間違えてこんな世界に足を踏み入れてしまったのかと要は今でも時々思う。大学の頃の友人たちが今の自分を見たのなら、どう思うのだろうかと。  個室へと案内される間も、要は言葉を持たなかった。けして寡黙ではない要だが、如何せん何を話せばいいのか分からないのだ。  かくして大人しく個室へと案内された要は、扉が閉まるのを確認して窓辺へと歩み寄った。いつ見ても宝石箱のようにキラキラと輝いている香港の街が、要は案外好きだ。  ――劉、いつ来るんだろ…。忙しいのに大丈夫かな…。  要が心配しているちょうどその頃、遥か下方ではミニカーよりも小さい一台の車がビルの前に横付けされた。中から降り立ったのは、劉国峰(リュウクオフォン)その人だった。  程なくして、背後で開く扉の音に要は振り返った。 「劉!」  名前を呼びながら躊躇いもなく抱きつけば、劉の両腕が要の躰を柔らかく抱き留める。 「待たせてしまったな、要」 「ううん。劉こそお疲れ様」  胸もとに顔を埋めた要はすんすんと鼻を鳴らした。 「劉…劉…」 「どうしたんだ? 今日はやけに甘えてくれるな」 「んー…、ちょっと懐かしい事思い出したからさ」 「そうか。では、食事をしながらゆっくり聞かせてくれるか?」  腰を抱かれ、要はテーブルへと誘われる。劉の手で引かれた椅子へと促されて要は腰を下ろした。  隣へと腰を下ろす劉を目で追って、要は口を開いた。 「そういえば、今年はなんで花束なんだよ…。しかもオフィスに…」 「要は私のものだと自慢したくなった」 「…っ」  劉の台詞に、要の顔は一瞬にして真っ赤になった。  シュウの言葉を思い出せば、女性が愛され度を自慢したいがためだとばかり思っていたバレンタインは、どうやら男の独占欲を見せつけるための行事でもあるらしい。そう要が理解するには充分だった。 「そっ、そりゃ確かにそうだけど…、何もそんな自慢しなくても…」 「気分を害してしまったのなら謝ろう。すまなかった」 「違っ、そうじゃなくて! 驚いた…っていうか、ちょっと照れたっていうか…」  香港ではそれが普通であると、シュウに聞いたことを告げれば劉が微かに笑った気がした。 「チョコレートの方がよかったか?」 「デートもいいけど、チョコ貰えないとやっぱりちょっと寂しいっていうか…安心できないっていうか…」  いつも…といってもまだ数度ではあるが、日本人でバレンタインはチョコレートという習慣の要としてはやはり花束よりもチョコレートを貰いたい。そう正直に言えば、劉の右手が魔法のように小さな袋を差し出した。 「これなら、寂しくないか?」  悪戯っぽく笑う劉の表情を、要はぽんやりと見つめた。 「愛している要。これからも、ずっと私の隣にいてくれ」  衒いもなく告げられる言葉に顔が熱くなる。恥ずかしくて、こそばゆくて、要は顔を俯けた。 「もう…そういうの狡いって…」  要の呻き声に、劉の笑い声が重なる。要の顔が赤いことなど見えずとも劉には分かっていた。 「さあ要、遅くなってしまったが食事にしよう。今年は、香港のバレンタインを楽しむといい」 「花束と食事?」 「ああ。香港では、どこのレストランもこの日は特別なコース料理を出してくれる。気に入ってくれるといいんだが」 「劉と食べるなら、きっと何でも美味しいよ」  本心から要が言えば、劉は幸せそうに目を細めて笑った。
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