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「……混んでんな」 「そ、そうだね」  俺が話しかけるといつも通り薫は隣で肩を揺らす。そうびびらなくてもいいのにと思うが、薫がびびる原因は今までの俺の言動にある。自分ではわからないが、目つきが悪いのと威圧的な雰囲気が相まって自分が意図しないときでも人を怖がらせているらしい。  俺と薫は休日の水族館を歩いていた。制服姿しか見たことのなかった薫が私服で立っているのは不思議な気分になる。休日の水族館はそれなりに混んでいて、順路をたどって魚の泳ぐ水槽を眺める俺たちのそばでは、数人の子供たちが走り回っていた。  なぜ薫とふたりで出かける気になったのかというと、薫と俺の関係の特別さを少し実感したからだ。  アルファである俺と、オメガである薫。あの日渡り廊下で俺は、確かに薫のフェロモンに引き寄せられた。俺の番は薫しかいないのだと思うと、薫のことを知ってみようという考えがわきおこったのだ。  まぁ最初にどうにかしなければいけないのは、薫がいつまでも俺にびびっていることかもしれない。 「すごい……」  考え事をしながら歩いていた俺の隣で感嘆の息を吐く薫に顔を上げる。すると少し先には、青白い光を放つ巨大水槽が壁のように俺たちを待っていた。この水族館の目玉のひとつなのだろう。水槽の前には親子連れやカップルが集まって各々好きな方向に顔を向けている。 「すげぇ」  天井の下から床まで続く水槽を前に、俺は顎を持ち上げて中を泳ぐ魚たちを眺めた。薫も隣に立って、俺と同じように水槽を見上げている。黄色や赤などのカラフルな魚たち、そして目を引く巨大なマンタが優雅に水の中を行き来している。  そこに水槽の奥から巨大な塊が現れた。黒い塊は動きながら少しずつ形を変える。ひとつの大きな生物に見えたそれは、数えきれないくらい集まっているイワシの群れだった。忙しなく泳ぐ姿は角度によって白く光る。 「なんか、美味そうだな。イワシ見てたら腹減ってきた」  今まで通ってきた水槽の魚を美味そうだと思いながら見てきたわけではないが、スーパーで見かける身近な魚を前に、気づけばそうこぼしていた。これだけの数がいたらどれだけ食べられるのだろうと考えてハッとする。  隣にいるのが普段つるんでいる連中なら、美味そう、食いたいとノッてくるか、すぐに何だそれとおかしそうな笑い声が返ってくるだろう。  しかしいま隣にいるのはそいつらではない。どうせ何も返ることはないだろうと思っていた俺の横から、息の漏れる音が聞こえた。  顔を向けた先で、薫は笑っていた。いつもの困り顔で眉を下げた苦笑とは違う、自然な笑み。そういえば薫の笑顔を見るのは初めてだと気付く。しかし俺が見ていることがわかると、薫はすぐに申し訳なさそうに顔を曇らせた。 「ご、ごめん」 「なにが」 「……笑って」 「いまのは笑うとこだ」  薫の予想と俺が返した言葉は違ったのだろう、薫は驚いたように目を大きくした。薫から視線を外した俺はまた巨大水槽に向き直る。そこで俺たちは無言のまま、泳ぐ魚たちをただ眺めていた。あれだけ耳についていたはしゃぐ子供の声も、いまは気にならなくなっている。 「あの、雅紀くん」  ためらって、でも薫が俺に声をかけたのがわかった。返事の代わりに視線を持っていき、なんだと聞く。薫から声をかけられるなんて、珍しいことだった。もしかして帰りたいという催促だろうか。 「あっちにレストランがあるみたい」 「……ほんとだな」  薫が指さした壁には、矢印とともにレストランという文字が書かれている。顔には出していないと思うが、俺は薫の言葉に、正直少し呆気にとられていた。  俺を怖がる薫からしたら学校以外でも俺と会わなければいけないのは嫌だろうし、この時間を苦痛に感じていると思っていた。それなのに薫は、腹が減ったと言う俺にレストランの場所を教えてきた。 「なんか食うか」 「そうだね」  ずっと硬くなっていた身体から少し力が抜け、柔らかな表情で頷く薫に拍子抜けする。俺といるときはいつも身体も表情も強張っていたから、少しだけのぞいた自然体に、なんだか調子が狂った。  びびらせないよう見られていることに気づかれないように薫を盗み見ながら、こんな柔らかな表情とさっきのような笑顔がもっと見られたらと思っていた。
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