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穏やかな風が吹いている。
「今日は温かいな」
「ええ」
車椅子を押す彼に答えながら、私は目を細めた。
もうすぐ終わる。
身体の中に残っている命がまもなく尽きようとしているのを感じる。
あの牢を出てから八十年。
辛いこともたくさんあったけれど。
ああ、なんて満ち足りた人生だったのだろう。
「お爺さん」
「どうした? そろそろ戻るか?」
「契約ももう終わりですね」
「…………」
彼は少し黙った。それから口を開く。
「……もうよいのか?」
「ええ、もう充分です。充分すぎるくらい」
「人間とは脆い生き物だな。たかが数十年で死んでしまうなど」
「でも、私は人間に生まれて良かったわ」
「何故だ?」
聞かれて、自然と笑みが浮かび上がる。
「だって。貴方と契約できたんですもの」
「ふんっ」
彼の照れ隠しの鼻笑いが微かに聞こえた。
耳や目の感覚が次第におぼろげになっていく。
「……ねぇ? 私の命を持っていってくださいな?」
「言われずとも。お前の命は永遠に我だけのものだ。逃げられると思うなよ」
「ふふっ、それは怖いわね」
彼の囁く声に身を委ねながら、私はまぶたをゆっくりと閉じた。
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