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普段であれば今日も彼女が店に訪れる筈なのに彼女は現れなかった。今まで彼女が訪れなかった週はない。客足が遠のく時間帯だが今日に限って忙しい。加えて工藤が体調を崩して休みをとり1人のシフトになった。全く以て良いことがない。仮に彼女が現れた所で今では複雑な気分だ。
ーー先日一緒にいた屈強な男性は彼氏さんですか?
そんな事聞ける訳ないし聞いた所で『はい、そうです』なんて返ってきたら堪らない。俺の青春が終わりを告げられる事になる。結論が出ぬまま堂々巡りをしていたら、あっという間に時間が経ち外は明るさを取り戻し始め、疎らに駅に向かって歩くスーツ姿の男性が見え始めた。やがて店のオーナー夫婦がやってきて就労を終える。気だるい足取りで自宅まで帰ると着替えを済ませずベッドに体を預けた。肉体的疲労を溜め込んだこの体と精神的疲労で研ぎ澄まされた脳内が悲鳴をあげていた。
それがスマホのバイブによる振動音と着信音だと判別がつくまでに時間を要した。けたたましく鳴り響くスマホに苛立ちを覚える。テーブルに置かれたスマホまで床を這うようにして辿り着くとスマホを手にとった。店からの電話だった。正午前に店から電話が来るのは珍しい。電話の主は店のオーナーだった。慌てふためくオーナーのしゃがれた声が起き抜けの頭に吹き込まれ苛立ちを覚える。オーナーが話す内容はどうも要領を得ない。俺が結論を急かすと店に警察が来ていて昨夜に店の近くで事件が起きた。それで聞き込みに来ているとの事。昨夜はオーナーが不在でわからないから勤務していた俺に白羽の矢が立った。だから店に来い……要はそういう事だ。次第に眠気が覚まされてきた。今から店まで向かう面倒くささとこのまま無視して再び眠る事を天秤にかけるも良心が勝り、オーナーに今から向かう旨を伝え電話を切った。大きく吐き出した溜め息の中に負の感情が多く紛れ混んでいるような気がした。残った感情は無になり正の感情は一切生まれてこない。この展開で生まれる訳がなかった。焦る事もなく顔を洗い、賞味期限切れで廃棄処分の予定だった紙パックの野菜ジュースを飲んでから店に向かった。
店に着くとレジにオーナー兼店長の鈴木が狼狽えながら俺に近寄ってきた。俺は中年の男性で責任者の立場にも関わらず、これほど頼りない人間を知らない。妻も夫に似た性格の持ち主で、夫婦揃ってまさにお似合いだ。そもそも警察が訪ねてきたくらいでどうしてそんなに狼狽えているんだ。鈴木は俺にバックヤードに向かうように言った。警察が昨日の監視カメラの映像を確認している最中だと言う。後ろめたい事がある訳でもない俺は足早に向かった。本音は早く自宅に戻って眠り直したい。事件なんてどうでも良かった。
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