けもの、ばけもの、さそうもの

1/1
2人が本棚に入れています
本棚に追加
/1ページ
「橋の手前で右に曲がって、そこから先は一本道だから迷うことはない。分かれ道の見えるころには人里についているはずだ」 背に負った子供を抱えなおし頭を下げる。ゆるく束ねた髪が肩からこぼれる。 歩き出そうとする女の背中に、畑仕事の鍬を横に置いた男は声をかけた。 女の向かう先には草木の生い茂る山。 「まさか今から峠越えをする気かい」 振り返った女がうなづく。 まだ肌寒くはあるが、夜に野外で眠れば凍え死ぬような季節は終わった。 天候も悪くない。 「今からでは大人の男でも日のあるうちには人里へたどり着けない。先月、街の近くに獣がでた話を聞いたかい。こんな山あいではなおさらだ。夜に出歩くのは危ない。小さな村だが一晩泊まるくらいならば……」 「ご心配ありがとうございます。ですが、急いでいるのです」 細身の女と、背負われた幼子。最低限の旅装。 特段に見目の良い女というわけではない。 哀れに思うほどみすぼらしい格好をしているわけではない。 しかしなぜだか、どこか気になる風情の女だった。 男は鍬を畑の端に置いた。 「隣村まで案内しよう。獣が出ても男手があれば少しは役にも立とう。どうせ身軽な独り身。これも何かの縁だ」 二度断った末に、女は渋々ながら首を縦に振った。 男、女、そして負われた幼子。 傾きかけた日が落ち、木々の隙間から差す月明かりを頼りに道を進む。 山あいの村を結ぶ道は広くはない。 しかし他に主たる経路も無いため往来は多くはないが途絶えもせず、獣道というほど鬱蒼としてもいない。 男は一方的に話をしていた。 小さな集落の事情、近隣の街であったという出来事。 女は相槌程度であまり語らなかった。 幼子を連れての一人旅、重い事情の気配がぷんぷんしている。 男は話を聞きたくて仕方なかったが、不躾であると自覚していたので自制した。 かわりに自分の身の上を話のタネにする。 随分前に死んでしまった母、歳の離れた兄夫婦と暮らしている父。 兄夫婦は睦まじく、父は上手くやっているようだが男はどこか居心地が悪く、家を出て半年。 村に独り身の女はいない。九つになる従妹を含めるのならばその限りではないが。 その従妹ですらぼんやりと嫁ぎ先が決まっている。相手は、今向かっているのとは反対側の隣村にいる十五の若者だ。 決定ではないものの、周囲は皆そのつもりでいる。 「狭い村で、伝手も少ない。このままずっと独り身のまま死んでしまうのではないかと怯えて暮らしている」 自虐で笑う男に、女は愛想笑いを返した。 「良い出会いがあおりであればよいですね」 月が薄雲に隠れる。暗闇とまではいかないが、視界が暗くなった。 「しかし、おとなしいお子さんだ。ずっと寝ている」 「今朝のうちに長く歩きましたので、疲れてしまったのでしょう」 「それにしても夕食もとらず、泣きもせず、もしかして体を悪くしていたりは……」 背負う子のほうへ近づこうとした男を、女は正面を向く形で制した。 「一度寝てしまえば静かですが、起きてしまうと泣き出してしまうかもしれません。やかましくても困ります。寝せておいてくださいませ」 男は伸ばそうとした手を引っ込めた。遠くで鳥が鳴いている。ふくろうだろうか。 「最近、巷で言われている夜中に人の襲われる話……隣町でも出たというあれだ。獣だろうと言われているがね、私は動物ではないと考えているんだ」 女の相槌は、はあ、という程度で感動が薄い。 女の返答は山に入って以来ほとんどずっとこのような有様だったため男は気にせずつづけた。 「噂話程度にしか聞かないので何か確証があるわけじゃない。ただ、人の襲われている場所が少しづつ南へと移動しているように思うんだ。それぞれ別の獣が襲ったのではなく、同じ何かが人を殺めているのではないかと」 「はあ」 「その大きさで歩く子供はいない。せいぜい這いずる程度、よくてつかまり立ちができるかどうかだろう。今朝から歩いたので疲れたと言っていたが、その子は、その体の大きさで、歩いていたのか?」 「……それは、言葉のあやで」 「ずっと眠ったままというのもおかしい。時折すこし動いてはいるが、それだけだ。顔もほとんど見えない。それは……本当に人の子なのか?」 「…………はあ」 「お前はその化け物にとらわれているのではないか。化け物に脅され、足として囮として利用されているのではないのか」 「私は……そのようなことは」 「その子供の顔を見せてみろ、確認するだけだ、化け物でないのならば見せられるだろう」 伸ばされた男の手を払って、女は懐から刃を取り出した。 驚く男の目を狙う。額を掠って血が噴き出た。目をつぶった男の腹を裂く。 女は体格と腕力に劣っている。速度と思い切りの良さが何より肝要である。 最善の動きを女は知っていた。くりかえせば多少は上手になる。 女は特段に見目の良いわけではない。 しかし何故だか異様に男の目を惹くようだった。 獣よりも恐ろしいのは人間である。或いは、人間も獣と変わらない。 目をつけた雌に子供がいれば殺して交尾をする獣は多い。 子育て中の雌は発情しない。 自分の種ではない子供は雄にとって邪魔でしかないのだ。 獣としての本能に忠実に生きるならば。 そうして女は女で本能に忠実に生きた。 子を守るために、子を害するものを排除した。 怪物など、化け物など存在しない。 あるとすれば目の前に横たわる肉塊が、そして刃の血をぬぐう自分がそれなのだろう。 女は背中の温かみだけを背負って山道を歩きはじめた。
/1ページ

最初のコメントを投稿しよう!