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コーヒー豆チョコレートと、ショコラ・ショウ
手作りなんて、とんでもないし、重いだろう。
あんまり高いチョコレートもないだろう。
かといって、義理と受け取られるようなものも送りたくはない。
自分たちの今の距離感に対して、そこそこいい感じで、しかしながら、ちゃんと気持ちが伝わる、というのを考え出すと、どうにも決まらない。
それに、相手はバリスタとしてカフェで働いているのだから、味覚もしっかりしているはずなので、下手なものは送れない。
デパートの催事場で、もう何周したかもわからないくらい、花梨はずっとうろうろしていた。
パッケージで目を惹かれるもの、チョコレートそのものが華やかに飾られていて『私を見て』と誘ってくるもの、一流のお店のもので味も保証されているもの。でも、個性的なため、場合によって激しく好みを外してしまうこともある。
そもそも、相手の好みがわからない。ビターなほうがいいのか、お酒が入っていても平気なのか。あまり凝ったものでない、シンプルなものがいいのか。チョコレート自体が好きではないということもあり得る。
ここまでさんざんあれこれ考えても、あげることができるのかどうかもわからない。店員と、お店を訪れるただの客の一人でしかないのだから。
数か月前に、仕事帰り、ちょっと用事があっていつもは行かないような場所へ行ったとき、偶然通りかかったカフェ。
だいぶ寒くなってきた季節だから、コーヒーでちょっと暖まりたい、そんな風に思ったのもある。それに、テラス席に座っていた人が食べていたケーキが美味しそうだったから。
そのお店に入ってみようと思った理由はたったそれだけだった。
お店の外観も、コーヒーの茶色とミルクの白を基調としていて、洒落ていた。
扉を開けて、一歩店の中に入ると、立ち込めるコーヒーの芳ばしい香りが鼻孔をくすぐる。
すると、大きすぎず、消えることもなく、すっと馴染んで、耳にとても心地よい店員の声が聞こえて来た。今にして思えば、最初にその声を聞いた時に、すっかり心は奪われていたのかもしれない。
「いらっしゃいませ。空いている席、お好きなところにどうぞ」
その声に、はっと、顔を向けて目が合うと、その若い男の店員は微笑んだ。
別に何ということはない。店を訪れる客の誰にだってしていることだろう。意味などない。ただの愛想笑い。
そのはずなのだが、何故だか体を巡っている血液全体がざわついているのを感じる。
自分の中にある同様の意味もわからぬままに、窓際に一つだけ空いている席があったので、花梨はそこを選んで座った。なんとなく、外が見える席というのは、開放感があるような気がするから。
メニューを見ると、迷ってしまう。ブレンドコーヒーにするか、カフェオレにするか。そういう時は、いつまでもグズグズ考えていても決まるものではないので、さっと、インスピレーションで決めるしかない。
このお店の外観の色からして、今日はカフェオレだろう。そう決めた。
フードメニューも何気なく開いて見ていたら、きゅっと胃が騒ぎ出した。ついでに夕食も食べて行こうか。お腹も減っていることだし。
心が決まったところで、花梨は手を上げて店員を呼んだ。
「すみません」
「はい」
注文を取りに来た店員は、さっき店に入って来た時に声をかけてくれた人だ。おそらくは、花梨と同じくらいの歳だろうか。でも、自分よりずっと落ち着いているように見える。
まったくの偶然なのか、はたまた、目が磁石のように吸いつけられたのか、それは花梨自身もよくわからない。とにかく、注文のメモを取るためにペンを持つ手に目が行ったのだ。
綺麗な手。この手が、この店を満たしているこの匂いのコーヒーを淹れているのか。
そう思うと、何故だかちょっとドキドキしてきた。なんとなく緊張してしまう。
何故だ。偶然入ったカフェの、ただそこにいた店員というだけであるし、彼は自分の仕事をしているだけだ。
何が人の心を動かすのかわからないし、それは急に訪れるものだ。理由らしい理由も見当たらずに。
花梨は、自分の中に生まれた邪念を追い払うように咳払いをしてから、注文をした。
「えっと……カフェオレ……と、ナポリタンを」
さらさらと、彼の手がしなやかに紙の上に書きつけていく仕草にも、心臓が妙な動きをしてしまうのを、はっきり自覚していた。
「かしこまりました」
仕事をこなし、用事が済んで、彼がすっと去って行って、ほっとしたのか、もう少しそこにいるのを見ていたかったのかわからないが、気が付けば、ちらちらと彼が働く姿を目で追ってしまっている。
数分後に運ばれてきたコーヒーの味が、思いがけず生まれてしまった気持ちに、決定的な名前と記憶を与えた。
それを、恋というのだろう。
まったく理屈もなく、突然で、馬鹿らしい理由で、そんなものは生まれて、そう名付けられたのだった。
それから、偶然通りかかるような場所ではないのに、わざわざ花梨はその店へ足を運ぶようになった。
そのうちに、他の店員に呼ばれているのを聞いて、彼の名前を知った。
高井戸志真(たかいどしま)。
彼について知っているのは、それくらいのことだった。
いや、どんな風に笑って、どんな声でお客様に話しかけて、その手がどんな風に動いてカップのコーヒーが淹れられるのか、そして、彼が淹れるコーヒーの味。それは、知っているつもりだけれど。
でも、それだけだ。
だから、どんなチョコレートが好きなのか、甘いものが好きか嫌いか、それさえも知らない。
聞くことも出来ない。あくまで、単なる店員と客なのだから。
でも、しょっちゅう店に行くので、顔くらいはきっと覚えてもらっているだろう。よく注文するものも覚えてくれているのはわかっている。
あの時のカフェオレ。
でも、それだけ。
そのまま、バレンタインデーまであと二日となり、こんなにぐるぐるとチョコレートを選ぶのに迷っているのである。
散々迷った挙句に、結局それで良かったのかどうかわからないけれど、一番彼のイメージに近いものを選んだつもりだった。
コーヒー豆チョコレート。
甘くて、噛むとほろ苦い。
二月十四日になり、いつもと同じように、何食わぬ顔をして、花梨は仕事帰りに志真がいるカフェに行った。
緊張していて、カフェオレを飲んでいる間も、カップを持つ手が小さく震えていた。
直接渡すことはきっと出来ない。だから、席を立つときに、チョコレートの入った袋をその場に置き去りにしてきたのだ。
もしかしたら、別の店員に持って行かれてしまうこともあるかもしれないけれど。それならそれで仕方ないと思いつつも、幸運が働いてくれるように、強く願った。
どうか、彼が見つけてくれますように。
そう祈りながら、店を出てすぐのことだった。
「すみません、ちょっと待ってください!」
背後から叫ぶ声がした。聞き間違えるはずがない。志真の声だ。
立ち止まって振り向くと、彼は手に持っていた紙袋を掲げて見せた。それは、花梨がお店のテーブルの上に置いてきたチョコレートの袋。
「あの……忘れ物……。これ、チョコレートですよね。今日はバレンタインデーですし、どなたかにあげるものなんじゃないですか?」
ちゃんと、彼が見つけてくれた。チョコレートは、行くべきところに行けたのだ。
その奇跡がにわかには信じられなくて、花梨は泣きそうになった。でも、ここで本当に泣いてしまったら、完全におかしな人として避けられてしまうだろうと、ぐっとこらえた。
そして、勇気を押し出して、半ば叫ぶように花梨は言った。
「わ……わざとです!」
「え?」
「わざと忘れて行ったんです!」
「……と、いうと?」
彼はきょとんとして、言わんとしていることを全然理解していないようだった。どうにももどかしい。
「だから……正確に言うと、忘れたんじゃなくて、わざと置いて行ったって言ってるんですよっ」
「わざと?」
困ったように眉を八の字にして、視線で彼は助けを求めていた。
いつも見ている、コーヒーを出してくれる時の、落ち着いた物腰でその手つきに見惚れてしまうような大人の雰囲気も素敵なのだが、こんなふうに困った様子も可愛いな、などと思っている場合ではない。
だからこそ余計に、花梨はなかなか伝わらないフラストレーションでむずむずしてきてしまうのだ。
「鈍い人ですね」
「……えーっと」
なんだかさっぱりわからないけれど、何やら責められているらしいことだけはわかっているのだろう。視線をアスファルトの上に落とし、志真は一生懸命に考えをあれこれ巡らせているようだったが、一分後には降参して、また困った顔をしてこちらを見てくる。
花梨は思わず頭を抱えてしまった。
どうしてわからないんだろう。頭も舌ももつれそうだ。
「た……確かに、そ……そのチョコレートは誰かにあげるはずのもので、ちゃんとそれが行くべきところに今行ってる、っていうことです。だから、それでよかったんです」
そこまで言って、彼はようやく理解をしたようだ。探り探り、答え合わせをしてくる。
「それはつまり……このチョコレートは……俺にくれるもの、っていうことですか」
「はい、大正解!……やっとか!」
思わず、花梨は、ぱんっ、と両手を打ち鳴らしてしまった。
「でも、何でです?」
どこまでも鈍いこの男に、花梨はもどかしさのあまりに、ついに堪えきれずに子供のように地団太を踏んでしまう。
「だから、今日はバレンタインデーでしょう!」
「ええ……でも、なんで俺にわざわざ?」
「バレンタインデーは、日本ではどんな日ですかっ?」
「……女性が愛を告白する日……ですか」
「そういうことですよ!」
きっと、もう顔は真っ赤になっていたに違いない。相手の顔も、みるみる赤くなっていくのが、夜道の中でもわかった。
時折通り過ぎる車のヘッドライトが、ちらちらと二人を照らしていく。恥ずかしいから、あんまり明るくしないでほしいのだけれど。
ぽそりと、消え入りそうな声で彼は言う。
「ちゃんと言ってくれなきゃわからないじゃないですか」
「わかれーっ!」
「いや、無理ですよ……」
「無理じゃない!」
「じゃあ、無茶ですよ」
「何ですか、その言葉遊び。こっちは真剣なんですよ!」
「だったら、こんな子供の悪戯みたいなやり方しないでくださいよ!」
「……よく知りもしない女からそんなものもらっても迷惑かもしれないとか、気持ち悪いとか思われたらどうしようって……だから、そういうことしかできなかったんです!」
「俺だって、まさか自分にくれるだなんて思ったりしないから、わかるわけないじゃないですか!」
「結局迷惑なんですか、どうなんですか!」
「嬉しいですよ!」
「……え?」
そこで、ぴたりと花梨は口を噤んでしまった。正しく言うならば、言葉などという小手先の武装が、すべてどこかへ吹き飛んでいってしまったのだ。
彼の今の一言には、それくらいの威力があった。
だから、信じられなくてもう一度聞き返してしまう。
「今、なんて言いました?」
「だから、嬉しいって言ってるんです」
二度聞いても信じられなかったが、しかし、二度聞いたことにより、都合のいい空耳ではないことは確定した。
すると、どういうわけか、嬉しい気持ちよりも、花梨の中には激しい動揺が襲って来た。
だから、またつい突っかかったような言い方をしてしまう。どうせなら、そこで可愛らしい反応のひとつもしたいところではあったのに。そんなことをしている余裕は一切ない。
「そ……そうならそうと、最初から言ってくださいよ!」
「あなたがどういうつもりかわからないから、俺だってどうしていいかわからないですよ!」
「……だって……」
「……だから……」
ああだこうだ。どうのこうの。
二人の言い合いは、三十分ほど、夜も更けて人通りも少なくなってきた通りに響いていたという。
お店の中まで響いていたようで、他の店員たちの間では、今でも時折話題に上るような、そんな出来事であった。
本当は、二人ともが動揺と恥ずかしさで、パニックになっていただけなのだけれど。それも、みんなが知っていることは、当人たちは知らないのだが。
それが、二年前の話。
そして、また巡ってきた、二月十四日という日。
花梨は湯気の立ったマグカップを志真に差し出した。
「はい、どうぞ」
「ありがとう」
受け取ったカップを、飲もうとして口元に運んだ志真の手が、ふと、止まった。
「ん?……あれ、この匂い……これは……コーヒーじゃないね」
「そうだよ。ショコラ・ショウです」
花梨は自慢げに言う。要するに、ホットチョコレートであるのだが、なぜわざわざそんな気取った言い方をするのか。
志真はカップを鼻先まで持って行って、改めてその香りを確かめた。
「へぇ……お酒入れたのかな。ラム酒の匂いがちょっとする」
「ご名答。でも、香り付けにちょっとだけね。大人だからね」
「はいはい、大人ですからね」
まるで子供をあしらうようなその返事に、花梨は多少の不満があったりもしたけれど、一口ホットチョコレートを飲んだ志真が、美味しい、と呟いたのを聞いたら、もうそんなことはどうでもよくなった。
思わず、にまにまと口元が緩んでしまう。
「そうか、そうか。美味しいか。よかった。……っていうか、私が志真にコーヒーを淹れるなんてことできるとお思いか。ちゃんと商売として毎日何杯もコーヒー淹れている人に適う自信などない。コーヒーに関しては、私は志真が淹れたものを飲む専門なのです」
「嬉しいけど……そこまで言うほどのあれでもないような。そんなの気にしなくていいのに。それにしても、珍しいね」
「今日は何月何日ですか!」
またわかっていないのか。今日の日付すら。
花梨はスマートフォンを鞄から取り出して、カレンダーのアプリを立ち上げて、志真に突き付けるようにして見せた。
ご丁寧に、十四という数字がハートで囲まれ、日付を囲む枠がピンク色になっているから、流石に気が付かないわけがない。
「……ああ、そっか、バレンタインデー」
「そうですよ」
「そういうことか。……いつも、花梨のくれるチョコレートはわかりにくいよね」
そうつぶやいた志真は、小さく笑っていた。
初めてチョコレートをあげた日のことを思い出して、急に恥ずかしくなった花梨は、むっとふくれっ面になった。
「なんだよ、ぶりっ子して可愛らしく渡せば満足かい」
「いや、そんなことは言ってない。……ところでさ……どうして偶然来た店の店員だっただけの俺を好きになったの?」
「え……」
何で、というよりも、理由もわからないけれど、ただ、その声やしぐさやその手に、意味も分からずドキドキした、そんなことを説明しても、きっと気味悪がられるだろう。
だから、花梨はぷいっと顔を背けて、突っぱねた。
「それは秘密です」
「は?」
志真は不満そうであったが、花梨は自分が回答することを避けつつ、同じ爆弾を相手にも投げ返してやる。
「それを言うなら、志真こそ、どうして私のこと好きになったのよ。お客さんなんて一日に何人も来るのにさ。その中の一人でしかないでしょう」
うっ、と小さく唸って、危うくマグカップを落としそうになった志真が、今度は顔を逸らす番だった。まるで真似をしているかのように。
「秘密です」
「はぁっ?」
「だって、言ったら引かれるかもしれないから」
「何それ……」
結局は、お互い様だったということなのか。
でも、もしかすると、言いたくないだけじゃなくて、言えない。言葉で何かを説明できるようなことではなかった、そういうことなのかもしれないけれど。
甘くて、ある意味ちょっぴり苦い思い出は、この日になるといつも思い出すことになるだろう。
思い出して顔が赤くなっても、チョコレートにちょっぴりお酒を混ぜれば、そのせいに出来るなんてことを考えて、ホットチョコレートにラム酒を入れたわけではないけれど。
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