ブルーバード

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甘寧が、愛の元へ来なくなってから2ヶ月が経った。彼女は未だにあの男のことを忘れられず、鬱々とした日々を過ごしていた。 最後の夜、愛は昔飼っていた鳥の話しをした。何故あんな昔話をしてしまったのか自分でも分からないが、もしかしたらあの話しをしなければ甘寧は変わらず部屋を訪れて来てくれたかもしれない。そんな風に思ってみても今更どうしようもない。彼は羽ばたいて行ってしまったのだから。 その日、結婚して家を出ている小さい方の兄が訪ねて来ていた。最初は家族皆で話していたのだが、気がつくと部屋には愛と兄の二人だけになっていた。 この小さい方の兄というのが耳聡く、どんなに下らない情報でもちゃんと頭に入っている男だ。なので、愛は試しに聞いてみる。 「ねぇ、小兄さま。甘寧という男をご存知?」 「甘寧? ああ、黄祖の部下の。甘寧という男は昔巴郡(はぐん)近隣の無頼漢を集めて江賊をしていたらしい。その後賊から足を洗うと子分を率いて荊州(けいしゅう)劉表(りゅうひょう)に仕官した様だが、劉表と馬が合わず結局江東の孫策の元へ行こうとした。だが、その道中江夏(こうか)太守の黄祖に待ったをかけられたそうだ」 その辺りの話しは何となく聞いた覚えがある。しかし江賊をしていたなんて初耳だ。彼は比較的気性の穏やかな部類の人間だと思っていた。 「黄祖は生来潔癖の気がある者らしく、甘寧の前身を卑しんで手柄を立てても重く用いてやらなかったみたいだ」 そういえば黄祖のことを酷く嫌っていたなと思い出す。黙り込んで話しを聞いている妹の姿に、兄は首を傾げる。 「それにしても、お前。よくもまぁ甘寧なんて名前を知っていたものだ」 「ええと、その、以前親切にしてもらったことがあって」 適当なことを言ってはぐらかそうとしたが、この苦しい言い訳をもっと上手に使う方法を思いついた。 「そう、親切にしていただいたの。だから直接会ってお礼を申し上げたいのだけど、どうすればいいかしら」 この兄のことだから甘寧の住まいを知っているかもしれない。ずっと知りたくて、でも本人に聞けずにいたことだ。高鳴る胸を押さえつつ、兄の口が開くのを待つ。 「あはは、それはもう無理だ。甘寧はもうこの街にいやしない」 「え?」 放たれた言葉の矢は容赦なく愛の胸を貫いた。もうあの男は愛の世界からもいなくなってしまっていたのだ。 「ヤツはチユ県の県長に推薦され、2ヶ月程前に任地へと向かったよ」 「そ、う」 「表向きはそうなっているが、噂ではヤツは任地に赴くふりをして江東の孫権の元へ向かったのだろうとなっている。甘寧を県長に推薦したのが、以前から甘寧の不遇を憐れんでいた蘇飛(そひ)という男で、蘇飛は甘寧に夏口から逃げる口実を与えたのだろうよ」 「ふぅん」 聞いてもいないのにペラペラと喋り続ける兄には悪いが、内容は半分も頭に入っていない。 今は只この場を早く切り上げて、寝室に戻りたかった。涙を溢す前に、嗚咽を洩らす前に、この秘かな恋を悟られる前に。 ぐっと拳を握って兄の見送りまで耐えきると、愛は早足で自室に戻る。そして、寝台に突っ伏して布団を被るとわんわんと泣いた。ようやく気がついた。あの夜、何故鳥の話しを甘寧にしたのかを。 ーー私も一緒に連れて飛んで行ってほしかった!! だがそれは無理な話しだ。元々甘寧は黄祖の元で名を上げようなどと考えていなかったのである。彼が目指していたのは江東の地。新たな地で身を立てるなら、その土地で名家のお嬢様を嫁に貰った方が経歴に箔がつくというもの。いくら一夫多妻といえ、よその、それも反目している相手の土地で貰った嫁などつれて行けば甘寧の評価は地に落ちるも同然であろう。以上のことから甘寧は愛のことを憎からずは思っていたが、所詮は行き摩りの人で、その場限りの縁だと考えていた。 でもそれは全部男の勝手な理屈であり、それに振り回される女はたまったものではない。 ーーああ、愛しい。愛し過ぎてなんて憎らしいこと! 愛は全てを悟ったが、それでもまだ好きでいる自分を情けなく思うのだった。 ***
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