ブルーバード

8/9
前へ
/35ページ
次へ
愛は自分が持っているだけの金品を積んで江東へと向かう行商の一行に紛れ込んだ。道のりは険しく、盗賊などに襲われるかもしれないーーそんな何の保証もない旅だが、怖くはなかった。家と家族を捨てた愛にこれ以上失う物などなかったからだ。ただ甘寧に会いたいという思いだけが原動力で彼女を動かす。 しかし、折よく出会えたとしても彼はきっと馬鹿なことをしたと言って呆れ、愛を実家に送り返すだろう。それでも別にいい。甘寧の出世を邪魔するつもりは毛頭なく、ただ一目その姿を見たいだけなのだ。それさえ果たせればきっと満足する、そうきっと。 数日が経ち、一行は江東に到着した。長江下流に広がるこの地は、気候が温暖で土地もよく肥えている。港には諸国の船が出入りして品物が溢れ、街には活気がみなぎり、行き交う人々も明るく気力に満ちた顔をしていた。愛はどこか陰鬱とした故郷を思い出し、甘寧にはこちらの空の方が似合っていると思った。 一行は孫権が居城を構える都へと入ったので、まずはほっとした。それから愛は行商人達に別れを告げると、直ぐに甘寧の居所を探り始める。一番確実な方法は城を直接訪ねることなのだろうが、それでは警戒されてしまうし、何より甘寧の立場を悪くしてしまう事態になりかねない。ならば残る方法は地道に聴き込みをして、男の邸を突き止めることだ。まぁもっとも邸を与えられていたらの話しになるのだが、気の遠い話しだ。 ーーでも時間は沢山あるもの、きっと見つけてみせる よしっと息込んで一歩を踏み出す。その時、懐かしい紫色が目の前を横切る。はっと息を飲んで目を凝らすと、人混みの中で紫の羽が揺れている。 ーーあの人だ! 愛は人の波を掻き分けて後を追いかけるが、なかなか上手く進めない。見失わない様に目を大きく見開いて、その後ろ姿を焼き付ける。ここで逃しては苦労して江東の地までやって来た意味がない。 「待って、待って!」 張り上げる声は街の喧騒にかき消される。その内、男は脇の道に曲がってしまった。遅ればせながら愛も道を曲がる。ーーそこで彼女が見た光景。 恋い焦がれた男が、女に微笑みかけていた。それも愛に見せていた色香漂う誘惑する様な妖しい笑みでなく、優しさと愛情に満ちた穏やかな笑みだ。そう、愛する者だけに向けられる特別な笑み。そして、 ーー私には絶対に向けられることのない笑みだ 喉の奥がからからに渇いて言葉を発することが出来ない。 既に妻帯者になっているかも、それは可能性の一つとして十分考慮していた。それなのに、現にこうして見せつけられたら胸が張り裂けそうになった。一目会えればいいなんてのは自分を強くもつ為の言い訳で、本当はずっと望んでいた。 ーー貴方にずっと愛されたかった だがそれはもう叶わぬ夢だ。 全てを捨ててここまでやって来てきたのになんて辛い仕打ちだろうか、と愛は思わない。それどころか、彼女は甘寧の後姿に深々と頭を下げると心の中で何度も礼を言う。 ーーありがとうございます、甘寧さま。私は貴方のおかげで、私にも自由に飛べる羽があることを思い出せました。それも貴方が先に飛び立って行ってくれたおかげにございます。私はもう鳥篭の中で生きていかない、だからどうか貴方も強く羽ばたいて、そして生きて下さい。本当にありがとう。 そうして愛は頭を上げると、踵を返して少し大股で歩き始める。もうこれで己を縛るものはなくなった。軽くなった心で江東の空を見上げる。すると、どんな結果になろうとも涙だけは溢さまいと決めていたのに、大空を舞う鳥が少しぼやけて見えたのだった。 ***
/35ページ

最初のコメントを投稿しよう!

12人が本棚に入れています
本棚に追加