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第四節気 春分――雷乃発声(かみなりすなわちこえをはっす)
この町に来た頃は春と暦で呼ぶのにまだ寒くて、暖かい春はまだかまだかと待ちわびていた。けれど軒下の雀に雛が生まれる頃には散歩をする道にも桜が咲き、庭の桜も満開に近いほど花を広げる。
そうすると人はウキウキとした気分になるもので、春の陽気に誘われてイーゼルの傍にレジャーシートを敷く。のんびりと絵を描きながら酒を飲んで、なんて贅沢だろうと暁治はにんまりと笑みを浮かべた。
花見の場特有の賑やかなざわめきもない。調子外れた歌も聞こえてこない。大きな桜を独り占めするのは実に気分がいい。
「つまみがスルメイカだけってのは寂しいが、まあいい」
炙ったスルメはマヨネーズに醤油を垂らしたものを付けていただく。そして今日のために買っておいたとっておきの日本酒を煽る。この庭で花見酒――ようやく本物の酒で味わうことができた。
せっかくなら祖父と楽しみたかったものだなと、少しばかり後悔が滲む。祖母が亡くなってから暁治は連絡こそ入れていたが、もっと会いに来たら良かったと思う。気にするなと笑っていたけれど、本当は寂しく思っていたのではないか。
いくらご近所さんが賑やかでも、この広い家に一人きり。うるさい親や妹がいなくて清々すると思うが、暁治でも時折静けさに取り残されるような気分になる。
昔は親戚もよく集まったが、いまは随分と縁遠くなったものだ。
「おーいっ、はるっ?」
シートに寝転がり、酒の心地良さとお日様のぬくさにウトウトしていると、ふいに影が落ちる。重たいまぶたを持ち上げると逆さに見えた朱嶺の綺麗に整った顔。元が良いとどの角度から見ても見栄えがいいのだなと思っていたら、それは困ったように笑う。
「もう、いくら天気がいいからってこんなところで寝てたら風邪を引くよ。また酔ってるの?」
「……酔ってない」
「それ、酔ってる人が言う常套句。ほら、起きなよ。お天道様はまだ高いし寝るには少し早いよ。一人で花見をするくらいなら僕も誘ってよ」
「だってお前の連絡先、知らない」
横になっている暁治を起こそうとしているのか身体に手をかけられる。しかし二人には体格差がそこそこある。それでも頭を持ち上げられて、鬱陶しくて首を振ったらぬくもりが触れた。
目を瞬かせて上を見れば相変わらず逆さに見える顔。けれど頭が一段高くなって膝枕をされているのに気づく。女性に比べたら柔らかくない太ももだ。それでも久しぶりに人に触れたような気がして暁治はそのまま黙ってしまう。
「寝っ転がってお酒を飲んでたらこぼしちゃうよ」
「んっ、あっ! お前、いま飲んだな?」
「えー? 気のせい気のせい」
手にしていたおちょこを取り上げられて、視線を動かせば朱嶺がそれに口を付けたのが見えた。普段の暁治ならすぐさま起き上がって酒を取り上げるところだが、暖かな陽気と心地良い酔いにふわふわとしてまたまぶたが落ちそうになる。
「今年も桜が綺麗だね」
「じいちゃんは毎年花見をしてたか?」
「してたよ。みんなで夜まで大盛り上がりさ」
「そっか」
「うん」
柔らかい返事に視線を持ち上げる。桜を見上げる彼の顔はどこか愁いを帯びていた。時折見せるその顔が暁治は気になっている。けれど聞いてはいけないような気がしていつも言葉にできない。
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