第六節気 穀雨――葭始生(あしはじめてしょうず)

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第六節気 穀雨――葭始生(あしはじめてしょうず)

 人というものは突然の出来事と、理解不能なものには、とっさに反応ができないものだ。あの日、耳元で囁かれた言葉に、正直言えばまだ暁治は理解が追いついていない。  好き――それには色々な感情がある。しかしあの脳天気そうな男の好き、なんて、それほど深い意味などないだろう。けれどそう思うものの、大事なことのように告げられては、無下にもできない。  暁治は無駄に真面目な男なのだ。だがくだんの人物はいつもとなんら変わりない顔を見せる。 「はるぅ、ちょっとそんなペースじゃ日が暮れちゃうよ」 「どこへ行くんだよ。早く帰らないと桃が待ってるんじゃないのか?」 「んー、桃なら大丈夫大丈夫。それよりほら、しっかり歩いて」 「適当な兄だなぁ」  なにをしているのだろう自分は、そんな疑問が湧いてくるが、それに答えてくれる人がいないことを暁治はわかっている。  今日は部活がいつもより早めに終わった。部員たちが作業を切り上げるのが早かったからだ。そうしたら前を歩いている朱嶺が散歩に行こう、なんて言い出した。夕刻に散歩とは、と訝しさしか浮かんでこないけれど、この男は言い出したら聞かない。  そもそも美術部員ではない朱嶺が、部室に出入りしていることが不思議でならなかった。部長の石蕗は「まあ、楽しそうですし、いいんじゃないですか」なんて笑って咎めてもくれない。  当人はなにをするでもなく生徒たちの作業を眺めたり、ぼんやりと窓の外を眺めたり。たまに居眠りしている時もある。なんのためにいるのだ、暇なのかと聞けば、楽しいよ、と見当違いな答えが返ってきた。  そしていまは学校を出て、なぜか山へと向かっている。どこへ散歩に行くつもりなのかと様子を見ていたら、自宅近くのバス停より一つ先で下りた。暁治の家の周りも田んぼや畑ばかりだが、ここはさらに人家が少ない。  日が暮れたら真っ暗になりそうだと、先ほどから暁治は帰る催促をしているところだ。道はさほど悪路ではないけれど、山道はさすがにキツい。 「最近ちょっとご無沙汰しているから、そろそろ挨拶に行かないと」 「どこに?」 「川上のほうに社があるんだよ。正治さんは季節ごとにご挨拶に来てたよ」 「ふぅん、じいちゃんはマメだったんだな」  古い町だからか、稲荷神社のほかにも小さな社が多いようだった。それに一つずつ挨拶へ行っていたと言うのだから、大人しい見た目に寄らない祖父のバイタリティーを感じる。  しばらく歩いて行くとさわさわと水の流れる音がした。町中にも川が流れているので、おそらくその本流だ。しかしふいに視線をそちらへ流したのと同時か、ガサリと川の反対側にある草むらが揺れた。  そして驚いて肩を跳ね上げた暁治の足元になにかが転がり出てくる。 「うわぁっ」 「なにー? はる、どうしたの?」 「な、なんか出た」 「うぅぅぅ」 「なんか唸ってる!」 「み、水、水をください」  しわがれた声で呻きながら足元に倒れている――薄青色の作務衣を着た、小柄な少年らしき人物。恵みの雨を求めるかのように両手だけを挙げて、水、水とうわ言のように呟き唸っている。  身軽な足取りでこちらへ戻ってきた朱嶺が、そんな彼を見て「あっ」と小さな声を上げた。 「はる、お水あったよね。貸して」 「え? ああ、うん。……って! 朱嶺、なにをしてるんだ!」  疑問符を浮かべつつも、提げていた鞄からペットボトルを取り出し渡すと、朱嶺はおもむろに少年の頭にびしゃびしゃと水をこぼした。慌ててそれを止めようと思った時には中身は空になっていた。  しかし先ほどまで苦しげに呻いていた少年は、すくりと勢いよく身体を起こし、その場に正座すると大きな瞳を瞬かせる。そしてほおっと大きな息をつく。 「助かりました。まさかここで山伏殿の坊に会えるとは。感謝の極み」
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