第六節気 穀雨――霜止出苗(しもやんでなえいづる)

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「母が狐って名前についてるからと、意味をよく理解しないまま連れ帰ってきて」  愛犬が狐ハンターだなんてなんの因果だと思うけれど、愛嬌のある顔で見上げてくるこの犬にはなんの罪もない。暁治の腰に前脚をかけたままのフォックスハウンド――ゴンスケの頭を大きく撫で回してやる。  しかしそれからぐいぐいと遊びに誘われて、三十分も庭で戯れることになった。運動量がある犬種だったようで、散々振り回されて縁側で息をついた時には、暁治はどっと押し寄せた疲れにうな垂れた。 「お米だけでなく、犬の面倒まで、重ね重ね申し訳ありません」 「大丈夫だ。……うん、そうだ。米代だと思えば安いくらいだろう」  縁側に五キロの精米が米袋に二つ。男二人に子供一人、案外あっという間になくなるものだ。なくなる頃にまた声をかけてくれると言うのだから、このくらいの運動、しなくては罰が当たる。  だが次に来る時は朱嶺にも持たせねばと、用事があると逃げ帰った後ろ姿を思い返した。いつも暁治の周りをウロウロとしている男に、なんの用事があるのだろうと思うが、いまだに詳細不明だ。 「そう言えば、石蕗は朱嶺と昔から親しいようだけど」 「おや、なにか興味が湧きましたか?」 「えっ? いや、興味というか。あの男はよくわからないなと思うことが多くて。いまだにどこに住んでいるかも知らないし」 「ふむ、あれは存外普通の男ですよ。住んでる場所はわりと近所です」 「近所って、どこだよ。……それよりもあいつ、かなり神出鬼没じゃないか? 学校でもふらりと顔を見せにきたと思えば、まったく顔を見ないとか」  いるはずなのにまるでそこにいないような気になる。暁治の授業の時は見かけるけれど、それ以外は気配をあまり感じられない。それでいて放課後になるとふらりと部室へやってくる。  あれだけ目立つ容姿と性格をしていて、目に留まらないことがあるなんてと不思議でならなかった。しかしそんな暁治の様子にふっと小さく石蕗は笑みをこぼした。 「俺はいまなにかおかしなことを言ったか?」 「いえ、あなたが気にかけてくれるなら、きっといまよりもっと、姿を見せると思いますよ」 「あれは珍獣かなにかか?」 「……っ、あはっ、珍獣、いいですね。ぴったりです」  訝しげに眉を寄せた暁治の反応に、こらえきれないとばかりに声を上げて笑った石蕗は、涙目になった目元を拭う。ここまで笑われてしまうと、ひどく恥ずかしいことを言っているような気にさせられた。  ますます眉間にしわを寄せたら、やけに愉しげな光を含んだ瞳で笑みを浮かべる。 「花開く、そんな日が来るといいですね。まあ、それはだいぶ先のような気がしますが」 「悪いが、言っている意味がよくわからない」 「そうですね。あの男もおそらくまだよくわかっていないんですよ。まだ少し、時間が足りないんでしょう。なくしてしまったと受け入れるのは、時間がかかるものです」 「なくしたもの、朱嶺の……あ、じいちゃんか? あいつもじいちゃん子みたいだったしな」 「ええ、それはもう大層、懐いていましたね」 「そうか」  それは暁治がこの町から離れていたあいだ分の時間なのだろう。しかしそれ以外の隙間は考えられないはずなのに、随分としみじみした声で語られて、時折見た横顔まで浮かんでくる。  遠くを見るような寂しそうな表情。そしてそれとともに、ふと耳元で声が聞こえたような気がした。  独りぼっちは寂しかろう――こっちへおいで。  霜が降りるような凍えた気持ちに、そう言って温かい手を差し伸べてくれたのは、一体誰だったのか。どうしていま、その声が聞こえたのだろう。  幼い頃の記憶はなぜか暁治の胸をひどく騒がせた。
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