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笑い声や早口言葉が聞こえてくる騒がしい教室。ドアの上にあるプレートは『放送部』とある。間違いない。ここだ。
「放送部へようこそ。入部希望? それとも見学?」
振り向いた先、艶やかな黒髪が揺れる。
首を傾げる彼女は新入生歓迎会に出ていた人だ。確か、放送部の綾瀬部長。
「入部希望です」
「オーケー。じゃあ、顧問と面談してくれる? あぁ、緊張することはないよ。先生が用意した原稿を読むのといくつか質問に答えるだけ」
「わかりました」
ひとつ頷けば、部室のドアが開け放たれる。
ドアを開ける音で集まった視線に「やあ!」と片手を上げて応える部長。部員と言葉を交わしながら進む彼女の背中を追いかける。
向かい合わせで置かれた二つの机。奥で手元の文庫本を睨んでいるおじいさんが噂の顧問か。
「先生、入部希望の子です」
部員を上手く捌いた部長が僕を紹介する。先生と目が合い、頭を下げた。
「高城淳です。よろしくお願いします」
「はい、よろしく。顧問の佐々木です。君はそこ座って。綾瀬はどうする?」
「ここで聞いてます」
「そう。じゃあ、まずはこれを読んで」
佐々木先生の向かいに座り、紙を受け取る。原稿だ。アナウンサー泣かせと言われる単語が並ぶ見るからに面倒な。
顔を上げた先、佐々木先生は鷹揚に頷いた。読み始めていいということだろう。彼の後ろで綾瀬部長が「がんばれ」と口パクで言っている。優しい人だ。
温かな気遣いに背中を押され、原稿を読み上げる。
注意を払うべき単語が山ほど並ぶ実際のニュースでは到底あり得ない原稿。けれど、僕は見慣れている。母が毎日書いてくれるものと同じだ。何百回、何千回と読んできた文章を間違える道理はない。
何事もなく最後まで読み切り原稿を机へ置く。周囲が静まり返って僕を注目しているのには、気づいていた。
「先生」
部長の呼びかけを顧問は片手を上げて制す。
「高城淳、だったな」
「はい」
佐々木先生は机の上の原稿裏返し『タカギジュン』と書き込む。メモ代わりのつもりだろう。
「放送部を選んだ理由は」
「僕は将来アナウンサーになりたいと思っています。その勉強のために、選びました」
「アナウンサーになりたいと思ったきっかけは」
「ニュースを何も理解できないほど幼い頃、ニュース番組を映していたテレビを指差して『この人誰?』と母に聞いたことがあったみたいです。難しい言葉を淀みなく口にするアナウンサーへの興味が、きっかけだと思います」
「夢は?」
今更何を聞いているんだ。この先生は。
驚きと戸惑い、混乱を押さえ込んで口を動かす。
「アナウンサーになることです」
「……まぁいいか。次、好きなこととその理由」
微妙な間を不思議に思いながら質問への回答を続ける。
「テレビを見ることです。好きな理由は、見る度に新たな知識を吸収できるからです」
「嫌いなこととその理由」
「嫌いなこと、ですか。……納豆は好きじゃありません。理由は、納豆独特の匂いが苦手だからです」
「ご両親はお前の夢についてどう思ってる?」
脈絡のない質問に「は?」と問い返したい気持ちを我慢し平静を取り繕う。嫌いなことを思い浮かべるまでの時間を思えば、答えに窮する質問じゃないだけ幸いだ。
「両親共にアナウンサーになるのが夢だったようで、我がことのように応援してくれています」
「いつから」
「物心ついた時からでしょうか。気付いた時にはアナウンサーに憧れていたので、両親もずっと応援してくれています」
今まで黙って先生の後ろに立っていた部長が腕を組む。と同時に、部屋の空気が変わった。きっかけは、僕の言葉だ。
何が原因だろうと思考を巡らせるもわからない。特におかしな受け答えはしなかった。回答までに空いた間も許容範囲内のはず。わからない。
顧問の咳払いひとつで、再び部室が静寂に包まれる。
「もう一度聞く。お前の夢はなんだ。アナウンサーになって何がしたい」
「アナウンサーになって……」
人々に正しい情報を、そして夢や希望を伝えたいです。
高校に合格してから始めた面接練習。昨日も母相手に言った台詞。それを口にすればいいはずなのに。母が示した「模範回答」をこの場で語るのは嫌だと感じてしまった。
僕は今、何を言えばいい? アナウンサーの仕事はニュースを読んだり番組の司会進行をしたりすることだ。アナウンサーになったらそれらをこなすことになるだろう。あれ。先生は僕に何を聞いた?
アナウンサーになって何がしたいか、だ。
アナウンサーになった後。アナウンサーになった先? そうだ。普通はある。当たり前だ。平均寿命はずっと先なのだから。それなのに考えたことがない。僕はアナウンサーになって何をするつもりだったのだろう。
「本当にやりたいことはなんだ」
やりたいこと。僕が、私が、俺が、やりたいこと。やりたいこと?
「お前がアナウンサーを目指すきっかけは、本当に自分自身の感情だったか?」
ちがう。チガウ。違う!
僕は、私は、俺は。本当は。
『淳、あなたは天才ね。それもとびきりの』
『私もあの人もなれなかったけど、淳なら絶対アナウンサーになれるわ』
……あぁ、そうか。
俺は、両親の夢を自分の夢だと思っていたのか。
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