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「やるねぇ、君」
「あ?」
息ひとつ乱さない男を睨む。
「あっはは! うんうん、最高。やっぱり君は面白いね」
何が面白いだ、この野郎。
サッカーボールを頭に乗せたまま歩き去っていく先輩にホッとしてしまうのが悔しい。あぁ、でも。疲れた。横になりたい。ここじゃダメだ。砂で制服が汚れる。
ようやく整ってきた息を一度大きく吐き出し、歩く。鞄の上に座ろう。それなら汚れない。
最初のボールは容易く胸で受け止められ、何度か弾ませた後に返された。
蹴っては返されるを繰り返して飽きてきた頃「僕からボールを奪ってみて」とゲーム内容が変更。さすが二年生エース。何度かボールに擦りはしたものの結局一度も奪えなかった。攻守交代しても、彼相手に長くはキープできず。素人なんだから仕方ないとは言え、手も足も出ないのはどうも悔しい。
鞄を引き寄せ腰を下ろし、大きな水筒を呷る先輩へ手を伸ばした。
「それ、ください。死にそう」
「ん? 別に良いけど、飲み物持ってないの」
「帰宅部なので」
飲み口に触れないよう気をつけて液体を口に入れる。スポーツドリンクだ。糖分と水分を吸収した脳が真面に動き出す。
礼と共に水筒を返し、質問する。
「先輩ってお姉さんいます?」
「いるよ。放送部で部長やってる」
綾瀬という名字。俺の名前を知っていること。想像するには十分な情報量だ。
きっと事の顛末も知っているだろう。そんな人がなぜ俺に声をかけた? ただの興味? この先輩なら有り得るか。
「君、他のことをしようとは思わないの?」
「……思ってはいます」
「ふぅん。なるほど」
「なるほどって。何がわかるんですか」
「わかるよ。同じだ、僕と君は。才能あるが故に己を蔑ろにし続けた天才。化け物。人の形をした人ならざるもの」
ボールを指の上で回しながら天才は淡々と語る。
「……人だろ。俺も先輩も」
「そりゃあ人間だけどね。周りは天才を『普通の人間』だとは思ってくれないでしょ? だから、人ならざるもの」
否定はできない。肯定はしたくない。答えない俺に先輩は黙って目を細めた。
彼が広げた掌の上へボールが落ちる。真上に放り投げ、再び手元に戻ってきたボールをもう一度投げる。今度は回転をかけて。楽しいのだろうか。それ。
楽しいんだろうな。
太陽の反射でキラキラ輝く瞳。弧を描く口元。楽しくて仕方ない表情だ。
えいっ。何度か宙に放られたボールが、ふざけた掛け声と共に投げ渡された。片手で受け止め、先輩を見る。
「やっぱりサッカーが好きだと思ったから、オリンピックやワールドカップで金メダルを獲りたいと思ったから、僕は今もボールを触ってる。君は?」
「他のことをします。夢を探すために」
答えながら、サッカーボールを投げ返す。
長い時間を費やしたことを今更嫌いにはなれない。これからも暇潰しにアクセント辞典を読むだろうし、テレビにアナウンサーが映ったら注視してしまうだろう。
だけど、俺も夢を見たい。誰かの夢じゃない。自分だけの夢を。
「それじゃあ、夢を探す君にヒントをあげよう!」
先輩が身を乗り出して俺を覗き込む。間近に迫った大きな瞳に思わず魅入っていると、トンと胸を突かれた。
「君は、己が化け物と呼ばれる由縁を知ってる?」
「……原稿を読むのが上手いから」
「読むのが上手い理由は知らないんだね? じゃあ、先輩から可愛い後輩へプレゼントだ。君の才能は、幼い頃から練習するうちに『耳が良くなった』こと」
耳が良くなった?
問い返せば、身を引いた先輩が語る。
「勉強しなくても現代文ができるのは読書量が違うから。雑学が多いのはこち亀を読んでいたから。そういう人間と同じ。
天才、化け物、その他諸々。人間と呼ばれない者が辿った道は大抵、生活した結果身についたものが才能と呼べるほど優れていただけだ。君も、僕も」
確かに、物心ついた時にはアナウンサーという存在が身近にあった。原稿も早口言葉もアクセント辞典も。だけど。
「俺、耳が良いと思ったことがないです」
「……あのね、こーんなに音が溢れた校庭の隅から叫んだ声は普通三階まで届かないの。それを苦労せず聞き取った時点で、君は耳がめちゃくちゃ良いです」
「え? 普通じゃないんですか」
先輩の呆けた顔が答えだった。
そして気づく。母が目を丸くするのは決まって発音や発声を修正する時だ。あの時も、あの時も。手本を聞けば自分との違いを見つけて修正できたが、きっと母には聞こえない違いなのだろう。だから、母は俺に驚き妬んだ。
はっ、と息を漏らした先輩につられて声を上げて笑う。何も知らなかった自分がおかしくて仕方ない。あぁ、でも。知れてよかった。
これで変われる。前に進める。
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