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「ただいま、霧ちゃん」
霧子はまず、振り向くことをせずに小さく嬉しそうな笑みを浮かべた。
世は闇を忌むけれど、霧子にとっては闇の訪れからの時間が何よりもの至福となる。
「おかえりなさい」
徐に振り返ると、漸く霧子は立ち上がり、声の主へ駆け寄った。彼の胸元へ頭だけを預けると、今日の始まりに胸を躍らせた。くすりという笑いを溢してから、彼は霧子の髪をそっと撫でた。
大きな彼の手は男性にしてはひどく綺麗で細い。生業のせいであるのかどうか、霧子は知らない。けれども彼の手は霧子がとても好きなもののひとつであった。
彼の手で撫でられ、その掌の感触や指の感触にふわふわとした心地を覚える。四隅のランタンが醸す明る過ぎず暗過ぎない仄かな温まりの中に真っ白い綿毛が溢れるような感覚が芽生える。
これらは、朝が来ると空の彼方へ飛んでいってしまう。
世は闇を忌むけれど、霧子は光を忌む。
呼び子は夜更の知らせ。
いつの間にか子猫は去っていた。
この子猫は昼を過ぎると彼女の小さな住まいへやって来る。そうして彼が戻るといつの間にか去っていく。
彼女にとっての闇から先の時間が齎す至福に対し、子猫は彼女の至福の時間の始まりを忌む。何処から来たのかも何処へ帰るかも告げる術のない子猫はそろりと去っていく。
「こだまさん、お夕食は?」
霧子がそう訊ねると、こだまは困ったように微かに笑ったから、彼女は「そう」と一言だけ言った。そうして気を落としたことを悟られたくなくて、霧子は彼の腕を撫でた。
「ねえ霧ちゃん」
「なあに?」
「あの時の翁草、覚えている?」
忘れられるわけがなかった。初めて彼女が彼の手を取った時、川縁で二人で眺めた。覗き見たこだまの瞳は、何も求めるものがないように霧子の目に映った。
彼はきっと、自分を求めることはない。
だから霧子は何も告げてはいけないと、逢瀬を重ねれば重ねるほどに深くなっていくこだまへの思いを胸の内に押し込める。
愛しているという言葉を飲み込み、求愛することも恋情を露わにすることも許されない。
霧子にとって、こだまの存在はそうして保たれている。
日中は只管にこだまを恋慕し、子猫がやって来ると、まるで子猫に自分を映すように甘える。子猫と共に日が落ちるのを待ち、こだまの訪れを待ちわび焦がれる自分を紛らわす。
こだまに抱く愛着をそういうものとして捉えてる霧子は、彼の胸の内を探るということがひどく困難で恐ろしい。
空が白み始めるれば、こだまは綿毛のように舞い散っていく、消えていく。霧子は独りに慣れていたけれど、彼の声を、彼の手の感触を、彼の闇のような瞳の色を、それらを覚えてしまったから、孤独をひどく怯えることも覚えてしまった。
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