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『出入りの多い職場だから……気を付けてね』
ぼくは、入社したばかりの頃に聞いた話を思い出す。
一つ歳上の先輩で、ぼくと入れ違いになるかのように会社を去って行った原田さんのこと。
一年間勤めたという彼女の前にも、正社員、パート社員が短期間で入れ替わりのように、一人が去って一人が入って、また誰かが去って。
『ずっとそういう部署だったみたいだよ』
『今いる社員もパートの人も、一年ちょっととか、半年ぐらいだし。ここに長くいる……ううん、長くいられる人は、ほんの少しだよ』
『皆ね……オカシクなっちゃうの』
首を傾げたぼくに彼女は、酷く疲れ果てた顔で笑って――ここが、とぼくの胸元を軽く叩いた。
確かに出入りの多い職場だったのだろう。
そこで働く人も、そして目には見えぬものたちの出入りも非常に多い、そういう場所だったのだ。
それから、いつの朝のことだろう。
朝、廊下に飾られている絵の額縁を拭いている時のことだった。
天井から人の形をした黒い影が、逆さまに伸びているのを目にした。
それは両の手をぶらぶらと揺らし、誰かを手招きしているように見えた。
そうか。
ぼくは二階の霊道と、この気味の悪い一階について、同じ建物内と言うにも関わらず、何故か別物であると考えていた。
しかし、その間にあるものと言えば、壁のみ。そう、物理的な壁など存在しても、それが得体の知れぬ世界に適用はされないことだ。
高い吹き抜けの天井のように、その空間は繋がっていたようだ。
逃げ場はないのかどこにもと。
ぼくは心の中で呟きながら、あぁ、外に行きたい、外にと馬鹿の一つ覚えのように、この場から逃げ出したくて逃げ出したくて、どうしようもない絶望感にまた襲われるのだ。
食品を作る工場は衛生面に厳しく、また、莫大な個人情報を管理する事務所も出入り口の開け閉めは厳しく、窓を一斉に開けて空気の入れ替えを行うなどの環境整備を行おうにも、そのような単純なことでさえ、そう易々とは出来ない。
腕のような黒い影が、じわりじわりと少しずつ、縦に横にと廊下へ長く伸びていく光景を、他人事のように思いながら。
爽やかな朝、などとは程遠い世界に自分がいたことを、ぼくは正しく理解した。
心霊スポットに毎日通っているのだと、そう言い聞かせた。
笑う回数が減った。
笑うことがなくなった。
マイナス思考のループに陥る。
自宅に、悪い何かを連れて帰るようになった。
憑かれるようになった。
しかし無理もないだろう。
何故なら、ぼくは一日中心霊スポットにいるのだから。
ぼくから発せられている言葉の筈なのに、それはぼくの想いではなくて。
見知らぬ誰かの悲痛な言葉を、何かの歌を、まるで呪文のように紡いで。
届くようにと、その誰かは誰かに向かって泣き叫んで叫んで叫び続けて、喉が痛くなる回数は増えて。
両親は必死に仏壇の鐘鳴らすのだ。
その音が、どこか遠くで聞こえていた。
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