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今日もまたこの夢なのかと溜め息を吐いてしまう。
目の前にある黒い塊に向かって包丁を突き刺す。
何度も何度も突き刺す。
時々、何かの呻き声が聞こえてくるのは、きっと疲れているからだろう。
今日も散々な一日だったから。
しかしこの行為が終わらなければ、あの優しい夢の世界には行けないのだ。
だから、黒い塊だったものが原型を留めなくなったとしても、包丁を手放すことはなかった。
しかし、そろそろ飽きてきたかもしれない
ならばと、今度は刃物を横に滑らせて、縦に斜めに、そうして、もっともっと深く。今度は切り裂いていけば良いだろう。
声が聞こえた。
指示通りに右手を動かす。
本当だ。
彼の言うことはいつも正しい。
この確かな手応えを感じ取れると、布団に入る前よりは、穏やかな気持ちに包まれて、不思議と落ち着くから心地良いと思えるのだ。
睡眠薬も酒も、何も必要ない。
この真っ黒な包丁があれば、それだけで、ゆっくりと緩やかに、愛おしい夢の世界へと落ちて、明日も生ける。
どこからともなく聞こえてくる何者かの声に返事をしたのは、いつの夜だっただろうか。
一年前、もっと前だっただろうか。
確かなのは、あの夜も、上司に、同僚に言われた嫌がらせの意味しかなさない言葉を、録音したレコーダーを再生するかのように脳内で無限ループのように振り返っていたということだ。
気の利いた台詞も、反論の言葉を言い返すこともできないぼくは、いつも、ただただ俯いて唇を噛み締めることしかできなかった。
そんな一日を振り返ると、悔しくなって泣けてきて自分自身に絶望して、眠れなくなっていた。
早く夢の世界に落ちて、全てを忘れてしまえば良いのに、そんなこと分かっているのに。
頭は徐々に冴えていき、ギリギリと歯軋りをして、掌をぎゅうっと握り締めた。
その時、だ。声が聞こえた。
何と言われたのか、どうしてもそれは思い出せないけれども、酷く魅力的な言葉だったことだけは覚えている。
だから、ぼくは返事をした。
その声の主と毎晩のように会話をするようになった。
彼は、優しかった。
ぼくの話を聞いてくれた。
すぐに言葉が出てこないぼくの言葉を待ってくれた。
それに彼は、ぼくにこの包丁を与えてくれた。
この包丁を使った次の日は、ぼくを罵倒した人は必ずだ、出社しない。
だから、明日の心配などしなくて良い。
静かに眠りに憑ける。
彼に「ありがとう」と呟くけれども。本当は、ぼくが永遠の眠りにつければ良いのに、そう思ってしまうれども。
彼は、ぼくと世間話をするのが好きらしいので、当分その願いはかなえられそうにない。
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