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十年日記を書店で見かけた。
これが巷で噂のと手に取りパラパラと捲る。
地味なカレンダーをぎゅっと凝縮したような、縮小して詰め込んだような、想像していたよりも味気ない、面白味のないただ分厚い手帳だった。
しかし、十年という月日に怖気付くも、一日あたりに書き込む欄は思いの外小さく、A四ノートでほんの二、三行程度のもので。
これは、いつどこで誰と何をした、それだけを書くような、ぼく自身の気持ちがどうだとか感情を記すスペースなどはなかった。
だから良いのではないかと、大学時代の鈴原洋一ならば、おそらく立ち止まることも、手に取ることもなかっただろう、手帳コーナーの一角。
新年度の訪れ、新しい一年のはじまりを色濃く匂わせる異質な空間。
スマートフォンの中、アプリケーションで予定を管理することが多くなった昨今にも変わらず、毎年恒例の色鮮やかな、人生のあれこれを記していく手帳は今年もどこの書店に立ち寄っても、目立つスペースに陳列されていた。
ああいうものを良いなと思えるのは、たとえ公私はあれど、学校、会社にプライベート等、書き込むべき予定があるから、忘れてはいけない約束があるからだろう。
言ってしまえばあれもリア充ツールの一種なのだろうと思う。思うように、なってしまった。
特に何をするわけでもなく、特に何がしたいわけでもなく、他者より突飛した能力があるわけでもなかったぼくの今、ただいまニート、自宅警備員などとも名乗れない、電話恐怖症の人嫌い。
完全なる引きこもりではないが、一週間、いや、一ヶ月の外出記録を見れば、十分これはひきこもり予備軍というやつだろう。
学生でも正社員でもバイトでもパートでも派遣でもフリーターでもない。
何の肩書きも、属する場所もないぼくには明らかに不要なもの。
その象徴が、おそらく手帳。そう見えたから。
埋めるべき空欄をーー開けば、白い未来を描ける手帳ではなく、あくまで過去を埋めていく日記という方に引かれたのかもしれない。
日々を綴るというには何もないだろう、ただの記録日誌もどき、しかも十年と銘打っているものを始めようとするなんて、それに金を払って購入しようとするなんて。この三年、いや、もうすぐ五年で、ぼくの頭もだいぶ麻痺してきたらしい。
迷い癖の、そういえば大学時代はよく学食のメニューで迷って友人に笑われた、そんな楽しかった記憶がさっと脳裏を過りつつも、さして迷うことなく、ぼくは日記帳を手にレジへ向かった。
「あと、十年も僕は、生きているの?無駄にならないかな?」
いつものように彼に問いかける。寝ているのか、またふらふらとどこかに出掛けてしまったのか、あのやさしい声は聞こえてこなかったけれども。
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