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二.
弟が襲われたという現場に着くと、彼はさっそく釣り糸を湖へと垂らした。ただし、釣り竿は彼自身が持つのではなく、近くの大木にしっかりと縛り付けられている。
これなら彼自身が湖に引きずり込まれる危険性は無いが、逆に怪魚を――仮にそれが本当にいたとして――岸に引っ張り上げるのも難しい。
しかし彼の目的は、べつに怪魚を釣り上げることではない。相手を殺せさえすれば良いのだ。そのために彼は、お手製の長い槍を持ってきていた。単に木材の端を削って尖らせただけのものだが、これで刺されれば、たとえ大魚でも無事には済まないだろう。
どうせ怪魚など出るわけはないのだから、俺達は待ちぼうけを食らうことになるだろう。日が暮れそうになったら、今日は諦めて帰るよう彼を促さないと。
俺はそんな風に考えていたのだが、この予想は三十分もしないうちに覆されることとなった。
突然、目の前で釣り糸がピンと張る。その先へと目を遣った俺は、文字通り腰を抜かしそうになった。
ここへきてようやく、俺は彼が正しかったことを知ったのだ。
俺の目は確かに、水面越しに巨大な魚影を捉えていた。
その魚影に向かって、彼が槍を突き出す。水面が赤く、血で染まった。
伝説のバケモノでも、やっぱり血は赤いんだな――などと、俺はどうでも良いことを考える。
怪魚は一撃では死なず、湖の中心に向けて逃げ去るべく方向転換をしたが、どうやら釣り針を外せなかったようで、その場で水しぶきをたててもがいた。
そんな怪魚を彼は、憎しみに満ちた表情で何度も何度も突き刺した。俺はといえば、彼を手助けするでもなく、かといって逆に止めるでもなく、ただ呆けたようにその光景を眺めていただけだった。
気がつくと、怪魚は腹を見せて浮いていた。
彼は槍の先でその死骸をつつき、動かないのを確認すると、岸へと引き寄せた。
この段階で、ようやく俺は我に返り、彼を手伝うことにした。
二人がかりで死骸を岸に引き上げ、間近で見ると、それは実に奇妙な魚だった。皮膚には鱗がなく、鰻のようにぬめぬめとしていて、引き上げた際、手に粘液が付着した。
尾びれはあるものの、背びれも胸びれも見当たらない。
では腹びれはどうかと思って怪魚の下腹部へと視線を向け、そこで俺は目を見開いた。
そこには、小さな足が生えていた。
ちょうど、尾のつけねあたりだ。
蛇に足なら蛇足だが、魚に足の場合はいったいなんと言うのか。本来あるはずの無いものという点では同じだが。
俺は一歩下がって、怪魚の全体像を視野に入れる。
全体的に丸っこい体に、尾びれがついていて、背びれや胸びれは無く、鱗の無い皮膚はぬめりを帯び、そして尾のつけねからは小さな足……。
俺は、唐突に気づいた。
これまでずっと怪魚だと思っていたこのバケモノは、魚なんかじゃない。
そして同時に、なぜ半年前に湖をくま無く調べたテレビの撮影班や大学の研究者達がこのバケモノを発見できなかったのか、その理由も理解した。
謎の答えは、実にシンプルだ。
その時こいつは、この湖にはいなかったのだ。
こいつらが湖を泳ぎ回っているのは、特定の季節の間だけなのだ。
卵が孵化する時期から、成長して陸に上がる時期までの期間限定。
横から、悲鳴が聞こえてきた。
そちらへと目を向ける。俺達の背後、湖とは逆の方向から現れたそいつの長い舌が、目にも留まらぬ速さで彼を巨大な口へと運ぶところだった。その舌が再び伸ばされ自分の体へと絡みつくのを、俺はどこか他人事のような気持ちで眺めていた。
ああ、そりゃそうだよな――と、頭の片隅で考えた。
オタマジャクシがいるんだから、親ガエルだっているに決まっている。
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