一.

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一.

 俺が生まれ育ち、十六になった今も住んでいるこの村は、良く言えば自然豊か、悪く言えば辺鄙な場所にある。  すぐ近くには、絶滅したはずのニホンオオカミがひょっこり姿を現してもおかしくなさそうな深い森があり、その奥には大きな湖があった。    この湖には昔から巨大な魚のバケモノが住んでいるという伝説があり、半年ほど前には大学の先生がテレビ局の撮影班と組んで調査に来たこともある。しかし彼らは、結局のところ何も見つけることができず、すごすごと帰っていった。聞いた話では、高性能なソナーまで持ち込み湖をくま無く探したが、魚影一つ見つけることができなかったという。  俺から言わせてもらえば、そんなのは当たり前だ。  湖に住む魚のバケモノなんていうのは、子供が森に入ったり湖に近づいたりするのを防ぐために作られたお伽噺にすぎないのだから。  実際、この森は薄暗い上に獣道も多く、気をつけないと子供どころか大人でも本来の道から外れて迷ってしまいかねない。ニホンオオカミはともかく、熊くらいなら出るという話もある。  子供を脅かすお伽噺の一つや二つ、作られる方が自然だろう。  そんな風に考えていたから、幼なじみから彼の弟が噂の怪魚に喰われたという話を聞いた時、俺は本気にしなかった。  歳の離れた弟を彼がとても可愛がっていたことはよく知っていたので、弟を亡くしたショックで妄想に囚われてしまったのだろうと考えたのだ。  彼の言によれば、二人並んで湖に釣り糸を垂れていた時、ふいに弟の釣り竿がもの凄い勢いで引かれたのだという。そこですぐに手を放せば良かったのだが、大物を逃がしたくないと欲を出したのか弟の判断は遅れ、そのまま水中に引きずり込まれてしまったそうだ。  彼の弟は幼いながらも泳ぎは上手く、すぐ水面に顔を出すことができた。しかしその直後、巨大な怪魚が水面から顔を出し、岸へ戻ろうとしていた彼の弟を背後から丸呑みにしてしまった。  その後、怪魚はすぐに水中に潜ると、尾びれをくねらせてそのまま悠々と泳ぎ去ってしまったという。その魚影は、三メートルはあったそうだ。  これが、俺が彼から聞いた事件のあらましである。  なぜその話を大人達にしないのか、と俺は尋ねた。俺の知る限り、彼の弟は単に行方不明になったという、ただそれだけの扱いになっているはずである。 「こんな話、大人にしたって信じてくれるはずないだろ」  彼は首を左右に振って、そう答えた。  どうやら彼にも、荒唐無稽な話をしているという自覚はあったらしい。大人達は信じてくれなくとも俺なら信じてくれると考えているらしいところが、実際には信じていない俺としては少し心苦しかった。 「それに、大人達に言わなかった理由は、もう一つある」  彼はそう続けた。 「もしこの話を信じてもらえたとして、皆があのバケモノを探して、それで見つかったとして、その後どうなると思う?」 「そりゃ、人を喰うような魚なんだから退治されるんじゃないか?」  深く考えもせずそう答えた俺に対し、彼は再度首を振ってみせた。 「そうはならない。考えてもみろよ。こんなところにあんなでかい魚がいたら、間違いなく新種だ。水面に出した頭以外はシルエットくらいしか分からなかったけど、俺だってあんな魚は一度も見たことが無い」  そこまで聞いて、俺にもようやく彼の言いたいことが分かってきた。 「つまり、その魚が見つかったら駆除じゃなく保護されるだろうって言いたいのか」  今度は、彼は深くうなずいた。 「前にテレビ局が来たこともあっただろ? 観光資源なるかもしれないって考える人間も出てくるだろうし、そうなったらますます殺すのは難しくなる。だけど俺は、俺の家族を喰ったやつが大事に守られることになるなんて、そんなの我慢できない。あれがどんな貴重な生き物だったとしても、だ。あのバケモノは、他の人間に見つかって保護される前に、俺がこの手で殺す」 彼の瞳は怒りで煮えたぎっていた。その怒りは件のバケモノに対してだけでなく、まだ幼い弟をあの湖へと連れて行った彼自身にも向けられているように思えた。  しかし一瞬の後、彼のその表情は気弱そうなものへと変化した。  「……だけど、うまくいくとは限らない。返り討ちにされるかもしれない。もし俺が明日になっても戻ってこなかったら、その時は仕方ない。これ以上あのバケモノに喰われる人が増える前に、今の話を皆にしてくれ」  俺はため息を一つついた。 「そんな遺言みたいな話を聞かされて、はいそうしますとお前を一人で行かせられるわけないだろ。俺もいっしょに行くよ」  彼は眉をひそめた。 「お前、今の話ちゃんと聞いてたのか? 死ぬかもしれないんだぞ? 俺はともかく、お前にはそこまでする理由が無いだろ」 「確かにお前の弟とは顔見知り程度だし、俺にとっちゃ復讐したいと思うほど大事な人間ってわけじゃない。でも、お前自身については話が別だ。死ぬかもしれないっていうなら、ますます一人では行かせられない。危険は覚悟の上だ」  口ではこう言ったが、俺は、俺自身に危険があるとはまるで思っていなかった。  一つには、彼の語る怪魚の話をまだ信じていなかったというのもある。  先ほど彼自身の口からテレビ局の話が出たが、つい半年ほど前に彼らが散々探したのに、何も見つからなかったのだ。  ここの湖は俺から見れば大きな湖だが、それはあくまでもこの片田舎に住む俺にとってはの話だ。べつにネス湖みたいに広いってわけじゃあない。釣りをしていてあっさりひっかかるようなものを、テレビの撮影班や大学の研究者が見落とすとは思えなかった。  それに、万が一彼の言葉通り怪魚が実在したとしても、湖に近づきすぎさえしなければ、何の危険も無い。魚の狩り場は、あくまでも水中から手出しできる範囲内なのだから。  俺が危惧していたのはもっと別のこと――例えば、弟を失ったショックで妄想と現実の区別がつかなくなった彼が湖に飛び込んでしまうとか、そういった可能性についてだった。  彼は、危険は覚悟の上という俺の宣言を聞いてもなお渋っていたが、最終的には折れてくれた。長い付き合いなので、言い出したら聞かない俺の性格をよく知っているのだ。
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