<第一話・拒否>

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<第一話・拒否>

 この術式が、本当に合っているなどという保証はなかった。何故なら自分は高名な魔術師でもなんでもない、偶然魔導書を手に入れただけのただの人間に過ぎないのだから。  それでも、どうしても――他に縋るアテがない。  危険な神、野蛮な神、地獄よりの使者――悪い噂などいくらでも聞いている。それがわかっていてなお、男は自らの願いを叶えるため、その魔法を行使することを選んだのである。  取り戻さねばならぬものがあるがゆえに。  そうでもしなければ、己に未来などないことを知っているがゆえに。 「頼む、応えてくれ……この呼び声に!」  魔導書に書かれている通りに陣も引いた。ちゃんと己と鶏の血を混ぜたものを使い、呪文を唱えながら丁寧に描きあげた。昔趣味で油絵をやっていたのが、まさかこんな形で役立つときが来ようとは。  凡人であっても、これほどまでに芸術的な魔方陣を引いたのだ。きっと神の眼にも蠱惑的に映るはず。否、そうであってくれなれば困る。  命を賭け、邪神と手を結んででも自分は達成せねばならないのだ。たったひとつの、大いなる使命を。 「どうか来てくれ、俺の元に……外なる神の使者、ニャルラトテップよ!」  魔方陣が、一層強く輝いた。確かな手応えを感じ、男は祈る両手に強く力を込めた。ゴゴゴ、と廃屋の床が揺れる音がする。地震を起こすほどの衝撃。強く禍々しい力の到来を予感して、男の全身の産毛が逆立つ。  紫がかった光が中心から、まるで水柱のように吹き出した。感動に胸を震わせながら、男はその中心を眼を見開いてひしと見つめる。いよいよ現れるのだ、自分の元に――伝説とさえ呼ばれる邪神が、今。 「ああっ……!」  光が、人の姿に変わっていく。思わず感嘆のため息が漏れた。同性に興味を持たない男でさえも、思わず見惚れてしまうほどに美しい青年がそこには佇んでいたのだから。  艶やかにウェーブした、肩ほどまでかかるほどの長さの黒髪。血が通っているか疑わしくなるほど透き通るような白い肌に、ほんのりと淡く色付いた唇。男性としてはかなり華奢な部類だろうが、しかし女性的ともまた違う。すらりと背が高く、無駄な肉が一切ないモデルさながらの体型。  そして何より眼を奪われるのは、髪と同じ黒の――長い長い睫毛だ。ふるり、とその矛先か震え、ゆっくりと瞼が持ち上がる。全てを見通すかのような黄金の瞳。冷厳で、人間では到底手が届かぬ美貌を称えた青年は、ふわりと魔方陣の上に着地した。  間違いない。男は頭を垂れ、神の招来を祝福、歓迎する。この美しさ、神々しさ、自分は確かに呼び出すことが出来たのだ――大いなる神、ニャルラトテップを。この感動的な瞬間を、己は一生忘れることなどないだろう。未来永劫、今日という日を瞼に焼き付け続けるに違いない。 「よくぞ、よくぞ……いらっしゃいました、ニャルラトテップ様……!」  頭を地面に擦り付け、男は懇願した。出会えただけでも素晴らしいが、今は感激するよりもやるべきことがある。  自分は使命を果たすため、危ない橋を渡ってまでこの神を召喚して見せたのだから。 「どうか、わたくしめの願いを叶えて下さい……!どのような対価でも、望むものをお支払い致しますゆえ……!」  望みを賭け、顔を上げる。憂いを帯びた神の表情は、ちっぽけな人間ごときには到底読み取れるものではない。その長い睫毛が瞬きをするたび、震えるほどの衝動が心臓を突き上げるばかりだ。  やがて、神の唇がゆっくりと動く。最初な神は何を言うのか、自分に何を命じるのか。ドキドキしながらその瞬間を待ちわびる男――そして。 「イヤです」 「へ?」  すっとんきょうな声を上げてしまった瞬間。ブチィ!とちぎれるような音とともに、男の意識はブラックアウトしたのだった。
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