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そして、あの運命の夜がやってくる。
その夜は雪が舞っていた。十二月でも特に寒い日だったことを覚えている。
色とりどりの幻想的なイルミネーションが街を彩り、道行く人々は身が震えるような寒さに足を早めつつも、年末のどこかそわそわした空気に身を委ね、楽しんでいる――そんな光景が広がっているはずだった。
だが、現実では街のあちこちでパトカーのサイレンが響き渡り、誰かが火でもつけたのか、ビルの合間から黒煙がいくつも立ち昇っている。交通規制が敷かれているため車道は大渋滞で、殺気立ったクラクションがそこかしこで不満をぶちまけている。
街を歩く人々はみな日常を奪われたことへの恐怖と戸惑いを浮かべ、その間をマスコミ関係者と思しき人々が怒号を上げて走ってゆく。街は尋常でない緊張感に包まれていた。
そんな中、深雪は街を巡回しているパトカーや警察官と遭遇しないよう気をつけながら、火矛威と真澄を探して走り回っていた。
「いない……真澄、火矛威……! どこなんだ、くそっ……!」
乱れた息を整えようと立ち止って周囲をぐるりと見渡した深雪は、横断歩道の向こうで誰かが手を振っているのが見えた。真澄と火矛威だ。
深雪は歩行者信号が青になると同時に飛び出し、横断歩道などお構いなしに詰めている車の間をすり抜けると、真澄と火矛威のもとへ駆け寄った。
「……火威! 真澄‼ お前ら無事だったか!」
胸を撫で下ろしつつ声をかけると、真澄は泣きそうになりながら深雪に縋りついてきた。
「う……うん。でも……!」
「……何があった?」
「京極たちが殺気立ってる! 《ネビロス》の連中をぶっ潰すって……あいつら全面抗争する気だぞ‼」
火矛威も顔を真っ青にしてまくし立てた。
《ネビロス》は《ウロボロス》と敵対しているチームの名前だ。もともと仲は悪かったのが、些細なきっかけで小競り合いとなり、《ネビロス》のメンバーが《ウロボロス》の一人を殺してしまったことで両者の溝は決定的になってしまったのだ。
京極鷹臣というのは《ウロボロス》のナンバー2だ。喧嘩がめっぽう強く、頭も切れる男だが、何かにつけて《ネビロス》を目の敵にし、好戦的な言動を繰り返していた。
「こっちからやらなければ、俺たちがやられる」――それが京極の口癖だった。ただのチャットのオフ会だった《ウロボロス》が良くも悪くも強大化したのも、ひとえに京極の手腕によるものだ。
京極たち一派が《ネビロス》による仲間のリンチを知り、怒り狂っているのは火を見るより明らかだ。今まで強硬派の京極たちを穏健派の深雪たちがどうにか抑えてきたが、こうなってしまっては生半可な説得で彼らを止めることはできないだろう。
「すでに暴動に走ってる奴もいて……火までつけやがった!」
「どうしよう……このままじゃ取り返しのつかない事になっちゃう……!」
「ちくしょう! こんな時に頭の翔遥はどこ行っちまったんだよ……!?」
真澄も火矛威も途方に暮れていた。
二人とも暴力沙汰は苦手で、あまり抗争に関わることもなかった。《ウロボロス》が変質していく中でも、変わることのない二人だからこそ深雪は彼らを信頼していたのだ。
真澄と火矛威を守りたい。その為にも絶対に《ウロボロス》を止めなければ。
「……俺が行く」
宙を睨みつけて告げた深雪の横顔を、真澄と火矛威は息を呑んで見つめる。
「深雪……‼」
「京極を止めに行く。たぶん……それができるのは俺だけなんだ!」
《ウロボロス》のナンバー3である深雪は、あまりにも抗争を嫌うので「空気の三番」などと揶揄されていた。だが、どんなに馬鹿にされようと駄目なものは駄目だ。
この異様に殺気立った空気に呑まれて《ネビロス》との抗争に突入すれば、大勢の死傷者が出るだろう。そうなったら二度と引き返せなくなってしまう。最悪の場合、ゴーストが社会の中で悪者にされてしまいかねない。
何としてでも京極の暴挙を止めなければ。
「分かった、俺たちも……」
そう口を開きかけた火矛威を深雪は片手で制す。
「いや、火矛威と真澄はここにいてくれ。京極は危険だ……どんな手を使ってくるか分からない」
「でも、深雪だけ危険なところへ行かせられないよ!」
「そうだぜ、俺たちずっと一緒だっただろ‼」
火矛威も真澄も本当は怖いだろうに、それでも深雪と一緒に行くと言ってくれたのだ。二人の気持ちはありがたかった。だが真澄は体が弱く、火矛威もアニムスを使って戦うことに慣れていない。だから、どうしても一緒に行くわけにはいかなかった。
「俺ひとりで行くよ。戻りたい場所があるって思ったら踏ん張れるんだ……!」
「深雪……」
「火矛威は真澄についてやってくれ。この寒さだ。体には良くないだろ?」
火矛威は深雪の言わんとしていることを悟ったのだろう。真澄を見やって、ぐっと奥歯を噛みしめると、ためらいつつも頷いた。
「……分かった。無茶すんじゃねーぞ。何かあったらすぐ逃げろよ!」
「ああ、分かってる」
「……気をつけてね、深雪! 絶対……絶対にまた会おうね……‼」
真澄は瞳を揺らして深雪の手をぎゅっと握りしめた。その細い指を握りかえすと、深雪は身を翻すように走り出す。
京極たちは《ウロボロス》の拠点であるカラオケボックスに集結しているはずだ。深雪はただ、そこを目指して一心に走り続けた。
この時、深雪はどうやって《ウロボロス》を止めるかで頭がいっぱいだった。これまでも《ネビロス》と《ウロボロス》の抗争を幾度となく阻止してきたし、今回も何とか説得できるという自信もあった。まさか自分が《ウロボロス》を壊滅させ、火矛威や真澄ともそれっきり離れ離れになってしまうとは思いもしなかった。
ただ、街に流れるのん気なジングルベルの音楽がやけに煩わしく感じられ、それを振り払うように走り続けた。
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瞼を開くと、まばゆい光が目を刺すように飛び込んできて、深雪は思わず顔をしかめた。
まどろみは瞬く間に消し去られ、手足に現実感が戻ってくる。だが、すぐに起き上がる気分になれなかった。寝返りを打っていると、先ほどまで見ていた夢の内容がぼんやりと脳裏に甦ってきた。
あの白い雪の舞う十二月の夜。
記憶に残っているのは、青ざめつつも真澄を守る決意を固めた火矛威の顔。そして不安に瞳を揺らしながら別れを名残惜しそうにしていた真澄の姿だ。
深雪にとってはわずか一年ほど前の出来事だが、実際にはあれから二十年も経っている。深雪はその間ずっと《冷凍睡眠》で眠らされていたからだ。
(真澄や火矛威とはあそこで分かれたから、《ウロボロス》が壊滅したカラオケボックスに二人はいなかった……俺の記憶が確かなら間違いない)
今までは《ウロボロス》のことを考えるだけで頭痛や吐き気がし、激しい呼吸困難に襲われていた。全身から血の気が引き、肺は破裂しそうに喘ぎ、心臓はバクバクと収縮を繰り返す。それなのに手足は氷のように冷たい。おそらく心身ともに《ウロボロス》の記憶を拒絶していたのだろう。
あまりに激しい拒否反応に、まともに《ウロボロス》のことを考えられる状況ではなかったが、最近ようやく冷静に当時の出来事を思い出せるようになってきた。
もし真澄と火矛威が生きているのなら、《監獄都市》のどこかにいるはずだ。この国にいるゴーストは発見され次第、この街に『収監』され、脱出することはできないのだから。
(そうか……考えてみれば真澄と火矛威がこの街にいたとしても、おかしい話じゃないんだ……!)
その可能性に気づいた深雪は自分でも驚くほど動揺した。居ても立ってもいられず、思わずベッドから飛び起きてしまう。
もし真澄と火矛威が生きているなら―――二人に会いたい。会っていろいろな話がしたい。会話を交わすのが無理でも、顔だけでも見たかった。二人が生きている可能性に思い当たった瞬間、会いたくてたまらなくなる。
しかし次の瞬間、深雪はある事に気づき、深くうな垂れてしまう。
(でも…………生きていたとしても二人はもう三十代後半なんだ……)
彼らが二十年の月日が経ってしまった一方で、深雪はまったく変わらないままだ。再会しても、いったいどういう顔をして会えばいいのか。何を話せばいいのか。冷静に考えれば必ずしも感動の再会となるとは限らない。
(ひょっとしたら二人とも……俺を恨んでいるかもしれない。俺は仲間を……帰る場所を……《ウロボロス》を奪ってしまったんだから)
深雪が《ウロボロス》の仲間に手にかけたことを二人も当然、知っているだろう。あれほどの事件を知らないほうが不自然だ。その後も深雪は二十年も姿を眩ませたままだった。今更のこのこと二人の前に出て行ったところで、何しに戻ってきたのだと罵倒される可能性すらある。
それを考えると会いたいような会いたくないような複雑な心境だが、どちらかと問われると、やはり会いたい気持ちが勝る。深雪にとって二人は、どれだけ年月が経とうと親友であることに変わりないのだ。
(《東京中華街》を出る時に見た、全身火だるまの《イフリート》……あいつは確かに俺のほうを見ていた)
その時のことが深雪は何故だか頭から離れなかった。全身が炎に包まれていて何者か分からなかったが、《イフリート》は確かにこちらを見ていた。攻撃するでもなく、警戒するでもなく、ただじっと深雪を見つめていた。それが、深雪には知り合いと出会った時の反応のように感じたのだ。
式部真澄のアニムスは弱く、はっきりと表にあらわれる程ではなかった。今でいう低アニムス値のゴーストだ。
一方、帯刀火矛威のアニムスは《イグニス》―――炎を操るアニムスだった。
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