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眠りの浅い夜
「千尋」
背後から呼びかける声に、足を止めた。
見計らっていたのだろう、振り返るまでもなくそれが誰なのかわかっていた。
「……何でしょうか」
抱えたダンボールを持つ手に少しだけ力を込め、そのままの姿勢で問い返すと、背中のすぐ近くで溜息が聞こえた。
思ったより距離が縮まっていた事に戸惑うけれど、それでも振り向く事はしない。
「敬語、やめたらどうだ。普通に話せ」
「……私は、これが普通ですが」
「どこがだ」
ぐい、と肩を掴まれ無理矢理反転させられる。少しよろけた私の身体を、彼が腰に廻した手で支えた。
自分のそれよりも太くがっしりとした腕の存在を、嫌でも意識させられ一瞬固まる。
ダンボールを抱えていなければ、まるで抱き合っている様に見えただろう。
職場にしては近過ぎる距離と、腰を抱える腕に意識を引っ張られ、緊張で背筋が凍りつく。
京介から離れて三ヶ月。
未だ、身体は彼の腕を覚えていた。
「……離してください」
静かに言い放つと、ゆっくりとその手が離された。慌てて距離を取り京介を睨むと、なぜか小さく微笑まれる。
「少し痩せたな。俺としては、以前のお前の方が良かったが」
切れ長の瞳が柔らかく細められる。流された黒髪の一房が落ちて、彼の額で揺れた。
少々冷たい印象さえ与えてしまうキツ目の顔立ちは、受ける印象こそ硬質なものの、口を開けばかつてと同じ空気を纏っていた。
余裕さえ感じるその仕草に、なぜだか苛立ちが募る。
再開してからというもの、仕事中も、今も、緊張しているのは自分だけに思えてしまう。
私は確かに、彼と別れた筈なのに。
別れを告げた筈なのに。
「仕事中よ。馴れ馴れしくしないで」
「結構な態度だな。仮にも自分の婚約者に」
「……今は、違うわ」
間を置いて言い切ると、京介が険しく顔を顰めた。
不機嫌さを全面に押し出す彼に少し驚く。
彼が負の感情を前に出すのは珍しい。
幼い頃から大人びていて、いつも余裕の態度でどこか掴めない、そんな人だったから。
物事に動じない、クールな彼に私は物心ついた時から惹かれていた。
長い間の片想いを実らせる事が出来たのだと思っていた。
けれど違っていた事を思い知らされた今となっては、その思い出も苦いものでしかない。
京介と仕事をする様になって、一週間が経っていた。
その間毎日送られてくる彼からのメールは、未だ一度も返していない。
そろそろ業を煮やしてやってくるかと思ったけれど、悪い予感ほど当たってしまうものなのだろう。
「俺は破棄した覚えは無い」
視線を真っ直ぐ向けたまま、真剣な表情で彼が言う。
向けられた視線と同じく、届いた声には濁りが無かった。
だけど。
「……私は、そのつもりよ」
険しい顔を崩さない彼にそう告げて、私は背を向け歩き出した。
胸に込み上げた熱くて苦しいそれには、気付かないフリをした。
ーーーーー
差出人:桐島 京介
○月○日○曜日 22:36
件名:お疲れ。
もう一度言うが、
俺は婚約を破棄した覚えは無い。
ーーーーー
携帯の上を滑らせていた指を止め、簡潔に書かれた一文をじっと見つめる。
白地に浮かんだ黒い文字が、責めているみたいに見えるのは、私に罪悪感があるからだろうか。
―――罪悪感?
どうして?
先に裏切ったのは彼なのに。
心で叫び声を上げた『昔』の自分を、瞳を閉じて押し込める。
もう、関係ない。
仕事で関わりがあるのも、今だけだ。
三ヶ月。
それだけ我慢すれば、もう二度と、京介と関わる事も無いだろう。
心の奥底で、未だに涙を流し続けている『昔』の自分にそう告げて、私は手にしていた携帯を放り出した。
愛用している枕の横に、ぽすんと軽い音を立てて着地したそれから意識を離し、布団に潜り込んで瞼を閉じた。
今夜の眠りは、浅いかも知れないと予感しながら。
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