貴方の人生から消えたくて

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貴方の人生から消えたくて

「な、んで―――」  メールは今、届いた筈なのに。  『今から行く』と書いてあった。だからこんなに早く着く筈が無い。  なのに、何故。 「お前が裏口から出て行くのを、見ていたからな」  凍り付いている私の頭上から、低い声が降りてくる。    背に感じる熱と、僅かに香る彼の匂いに、頭の芯が痺れた気がした。  私の手は、未だ鍵を鍵穴に挿したまま。  それに京介が上から手を重ね、閉めたばかりのロックを解除する。  カチリ、と金属音が鳴り響き、京介は私ごと、部屋へと入った。 「っ……は、離してっ!」  片手で彼の胸を突き、無理矢理身体を離し距離を取る。  自分の部屋に居る京介の存在に、緊張で心臓が激しい音を立てていた。 「なぜ、逃げる? いや、なぜ逃げた?」  離れた距離をそのままに、細めた瞳を向けて京介が言う。  今日こそは聞かせてもらう、とでも言いたげなその瞳に見据えられ、私の目に涙が滲む。  それを見て、京介がはっと目を見開いた。  ―――逃げたんじゃない。  私は、消えたのだ。  京介から。  京介の、人生から。  消えたかったのだ。 「……っ!」  叫びたいのに、声が出なくて胸を押さえる。  激しくなり続ける動悸に、体中の熱という熱が上がった気がした。  呼吸が、苦しい。  職場では出なかった。仕事だからと、心が遮断してくれていたから。  だけど、今は違う。  今―――私の心は、無防備だ。 「千尋?……おいっ!?」  焦った京介の声に、なぜか心地よさを覚えながら、私は眩暈に襲われた意識を、黒い底へと手放した。 ◆◇◆ ……そこまで、俺が嫌になったのか……。  沈んだ意識の中で、その言葉だけがゆらめいて。  声は小さいはずなのに、受ける印象は強すぎるほど強烈で。  苦しくなるほどの声の切なさに、ぎゅっと顔を顰めて目を開くと、そこにはここ三ヶ月で見慣れた天井が見えていた。 「……気が付いたか」  離れた場所でした声に、驚きつつも視線を向けると、部屋から玄関までの短い廊下に彼がいた。  辛うじて見える京介の顔は、なぜか泣き出しそうに見えた。 「きょう、すけ……?」  状況がわからなくて、問いを込めて彼を呼ぶと、途端彼の顔が綻ぶ。 「名前を、呼ばれたのは久しぶりだな……調子はどうだ? もう辛くはないか?」  薄く微笑みながらも心配げな彼の様子にどきりとする。  言われた言葉に記憶を反芻してみると、意識が戻る前、激しい動悸がして呼吸が苦しくなったのを思い出した。  ―――ああ、また、私。  自分の中で答えを見つけて、苦笑する。 「大丈夫よ。だけど……できれば私に、近づかないで」  自分で言った言葉に、痛みを感じて顔を顰める。  だけど、京介にまた同じことをされると私はまた倒れる事になってしまう。  あの苦しさは、なるべくなら味わいたくない。  私の言葉に、京介がふっと目を伏せ呟いた。 「俺が、原因か?」  彼らしくない暗い声。  伏せた瞳も、似合っていない。  仕事でもプライベートでも、貴方は真っ直ぐ、前を見る人だったから。 「違うわ」 「嘘をつかなくてもわかる。職場での千尋も、俺に近づくのを極端に避けていたものな。俺が触れた途端、お前の呼吸が荒くなった。……過呼吸、だったか」  私の返事を即座に否定して、伏せた瞳のまま言葉を紡ぐ彼の表情が、なぜか痛々しく見える。  気付かれていた。  仕事でも、なるべく距離を置いていた。遮断した心でも、近付きすぎるのだけは避けたかったから。  断言する彼の口ぶりに、無駄な否定をするのをやめる。 「きっかけは、そうね。でも、原因は私にあるの。私が……弱いから」  京介がやっと、ゆっくり瞳を上げて私を見る。  ベッドで横になっている私と、彼の瞳とが重なって、静かな沈黙が二人の間に漂った。  私が、弱いから。  そう。  これに尽きる。  長く付き合った恋人との別れは、私の身体を変えてしまった。  別れの『原因』となったその出来事は、私に暗くて重く、引き摺るような重石を心につけた。  思い出すだけで苦しくなる。  胸も、息も、身体も。  だから、離れたかった。  消えたかった。  彼の、傍から。
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