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かつて婚約者だった人
「初めまして」
「っ……」
発せられた声、目に入ったその姿に、無意識に上げた悲鳴。
浮かべた笑顔とは裏腹に、その瞳の奥は笑っていなかった。
刺す様な視線。
その矛先は―――――私。
「三ヵ月後の新規事業開始にあたり、応援に来てくれた桐島君だ。先日通達があったように、長谷川チームが新部署の配属となる。今後は彼の指示を仰ぐように」
言いながら、人事部長の広田(ひろた)さんが彼に言葉を促した。
「DRM事業本部所属の桐島京介(きりしまきょうすけ)です。微力ながら皆さんのお手伝いをさせて頂きます。よろしくお願いします」
企業戦士の典型のような、隙の無いスーツ姿の長身が言葉の最後に小さく頭を下げた。それに合わせ、私を含む『長谷川チーム』の全七名が彼に同じく会釈を返す。
再び顔を上げた時、また鋭い視線が身体を貫く。
目線だけを無理矢理逸らし、緊張を悟られまいと背筋にぐっと力を入れる。
見知った顔―――では済まない。
幼い頃から見慣れた顔。
それが、目の前にいる。
皮肉だね、ともう一人の自分が自嘲気味に笑う。
彼と離れる事を決め、それを実行したのが三ヶ月前。
なのにこれから三ヶ月、彼の傍で仕事をするのか。
まさか、今になって……会うなんて。
彼はかつて―――私の『婚約者』だった人。
◆◇◆
帰宅後暫くして、ソファの上に放っていた携帯の画面が淡く点滅しているのに気が付いた。
首にかけたタオルで髪を拭いながら、それを手に取り確認する。
メール受信 一件
ロックを解除し、画面を滑らせると、以前は頻繁に目にしていた筈の名前があった。
『 京 介 』
苗字の無い、名前だけの表示は、それだけ私と彼が近い距離にあったという証拠でもある。
プライベートでは彼の事を名前で呼んでいた。私も彼に『千尋』と呼ばれていた。
私、長谷川千尋(はせがわちひろ)は本来ならば、『桐島千尋』になる予定だったのだ。
―――ほんの、三ヶ月前までは。
ーーーーー
差出人:桐島 京介
○月○日○曜日 20:27
件名:久しぶり。
届いているか?
あれから何度も電話もメールもした。
返事は期待していなかったが、予想通り全て無視とはな。
だが、これでもう逃げられないだろう。
否が応でもこれから三ヶ月は顔を付き合わせる事になるからな。
……おやすみ。
ーーーーー
最後の一文を目にして、瞳を閉じる。
ぎゅっと瞑った瞼に滲むモノを、どうにか押し留め携帯をソファに置いた。
返信はしない。
彼もそれがわかっているから、文末を締めている。
よく知っている。私の性格を。
知られてしまうほど、傍にいたのだから。
着信拒否はしていなかった。
彼と離れてから送られてきた数々のメールや着信も、未だメモリに残されている。
……消せなかったわけではない。
幼馴染という間柄、京介とは切っても切れない縁がある。
どれほど断ち切りたいと私が願っても、周囲がそれを許してくれない。
母には京介とは終わったと告げた筈なのに、未だ連絡が来るたび彼の話を聞かされている。
幼い頃から知っている京介の事を、母が気に入っていたのは知っていたし、彼との婚約が決まったのを一番喜んだのも母だった。
私達に元通りになってほしいのだろうが、生憎応えられない私はいつも母の言葉を気まずい思いで聞き流していた。
母が知ったら何と言うだろうか。
再び京介と、仕事を共にするなんて。
愛想も何もない、ぶっきらぼうな文章が、懐かしいと思ってしまうのはどうしてだろう。
私が住んでいたマンションに、彼が来たのかどうかはわからない。
簡単にメールで別れを告げて、今のアパートに越してきて三ヶ月。
最初は休む暇も無いほどに大量のメールや着信が鳴り響いていたけれど、それも今や途切れていた。
だからこそ、もう諦めてくれたのだと安心していたのに。
―――まさか、支店に出向してくるなんて。
大丈夫? と脳内で呟きが聞こえた。
それに心で『大丈夫』と自分で自分に言い聞かせ、再びソファの上に置いた携帯に視線を向ける。
黒く変わってしまった画面が、静かに訴えているように見えた。
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