elopement

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elopement

   少女は、少年と目が合った。今日もだ。 「ぎゃはははっ、きったなーい」  床に蹲る少女に、水が掛けられる。バケツの濁った水は確かに汚くて、臭かった。  開け放された女子トイレの出入り口の前、ニヤニヤこちらを見ている連中の向こう側、少年は真向かいに位置する窓に寄り掛かって携帯端末をいじっていた。女子トイレでいたぶられる少女のことを、気にもしていないように。見ていないように。  興味無さそうに。  日常風景だった。  クラスのヒエラルキーの最下位である少女にとっても、ヒエラルキーの上位である少年にとっても。  いじめられている理由はわかっている。少女が、誰より頭が良いからだ。  少女は特待生だった。奨学金を貰い、少々金持ちの、世間の水準より裕福な生徒の多い私立校に通っていた。  それが、挫折の多くを知らず、上下関係の厳しい成金お坊ちゃまお嬢様には面白くない。  少女が成績一位を取り続けていて、いじめにも大してダメージを受けていないことが、殊更に。  少女は平然としていた。装っているのではなく、本意で気にしていなかった。  だって少女は、わかっていたから。  彼らは彼女らは、本物の『富裕層』を知らないだろうけれど、本物の『底辺』と言うものも知らないのだと。  食うものも碌に食えず、ただいるだけで暴力を振るわれ、血反吐を吐いて生と死の境を常に彷徨う、明日をも知れぬ悪辣な『環境』を知らないのだと。  きれいな上澄みばかり見て、上の部分しか知らない彼ら彼女らは少女が本気で抵抗したら、死んでしまうかもしれないのだ。  だから、少女は抵抗しなかった。少女にしたら学校のいじめは、おままごと並みのごっこ遊びでしかなかったから。  それに。  いじめはいつも、エスカレートすることは無い。 「もうさ、身包み剥いでそこら放置しちゃう?」 「良いねー。写真撮ってネットに上げちゃおうか」 「××、こう言うの足付かずにするのとか得意だよね?」 「ははは、やべぇ──── 「────ねぇ」  たった一つの呼び掛けで、今まで喧しく騒いでいた会話がぴたっと止まった。誰もが発言主の一言一句を逃すまいと、耳を澄ませて静まり返る。 「あのさ、もう帰って良い? 時間なんだけど」  皆が注意深く行儀良く待っていた発言主は、少年だった。少年はいじっていた携帯端末を仕舞うと、隣にいた友人と共に踵を返し女子トイレを離れて行く。慌てて、さっきまで少女をいたぶり盛り上がっていた者たちもぞろぞろと、少年の後を追う。親鳥に必死に付いて行く雛鳥みたいに。 「……」  まただ。一人残された少女はきょろきょろと、みんないなくなったのを確認してのろのろ体を起こす。  まただ。少女は座って溜め息を吐く。まただ。思う。  また、少年は止めた。  いじめは、ごっこ遊びからエスカレートすることは無い。  こうして少年が、止めるから。  最初は、何でかわからなかった。正直、しばらくしてもわかっていない。  何で少年が止めるのか。いじめをやめることはしないのに。  いつもそうだった。  まぁ、正直自分の立場を考えてなのかもしれない。  エスカレートして取り返しの付かないことになっても困るから、とか。  そんな。  少女は寮に帰る。戦前から在ると言うボロい寮は、今住人が余りいない。いても、あの学校でも比較的におとなしい部類の人間だけだ。皆、家庭の事情とやらで入れられたのか外でも寮でも干渉しない。この状況は、少女には、とても有り難かった。  どんな姿になっていても、特に気にされないから。寮母はいて、門限も在るけれども然して問題ではなかった。大浴場は締め切り時間が在るが個室にシャワーは付いているし、洗濯室も二十四時間開放されている。  少女は、服を脱いだ。洗濯籠へ放る。ひどい臭いに、まずはシャワーを浴びる。  元は軍事学校だったらしい。だからか建物は頑丈で、こんなに月日が経っても朽ちることは無かった。罅も汚れも在ったけれど。 「……」  この建物は、この部屋は幾度こう言った風景を眺めていたんだろう。  何人が、何を思ってこの壁を見ていたんだろう。 「……」  栓を捻る。お湯が出た。 「……」  少年は、今日も携帯をいじっていた。携帯をいじって────携帯越しに少女を見た。  いったい何を考えてあそこにいるんだろうか。  携帯端末をいじる程暇ならば、いなくても良いと思うのだけど。  あのヒエラルキーの、一応上層にいる、責任だろうか。  と言うか、何を見ているんだろうか。何も見ていないのだろうか。  少女と、目が合うくらいだし。  お湯が臭いを流す間、ふっとそんな物思いに耽っていた。  いじめとクラスメート以外接点も無い少女は、少年が携帯端末で何を見ているのか知らなかったし察することも出来なかった、けれども。 「……」 「……どうしてあんたがいるの?」  この数日後、偶然にも知ってしまう。  これは何の冗談だろうと思った。────足元に視線を落とす。知らない誰かが転がっている。  悪い冗談だろうと。────少女はジャージにパーカを羽織っていたけれども、少年は常日頃学校にいるときと同じ制服だった。  否。────非日常と日常が交錯している。少女にとってはどちらも『日常』だけども。 「きみが本当に……なの?」  少年が、少女に問うた。少女は現地調達した鉄パイプを握り締めた。  痛い程度には、現実だった。 「……本当にゲームで依頼受けてるんだ」  オンラインゲームのチャット機能で現実の復讐を請けている者が在る。  お互いの大まかなやり取りはそのチャットで隠語を使い行い、本格的なやり取りはこちらが用意したWebメールのアカウントを依頼者に教えて行う。……その際、メールの送受信は行わない。一つのアカウントを共有し、未送信の下書きを使ってのやり取りだ。  依頼前に現場を見たいと言う見学希望が来ていると、少女は連絡係から聞いていた。本来は実行者と見学者は出くわさないよう、細心の注意を払っているはずだが……それにしても。  見学者が、まさか、少年だったとは。 「て言うか、あんたが復讐したい相手なんているの?」  学校のヒエラルキーとは言え、縦横の繋がり大事な金持ち学校のヒエラルキーだ。この上部にいる時点で家も良いとこと保証されている。事実、少年は学校でも丁重に扱われていた。少年の言動は重きを置かれていた。少年に復讐したい相手がいると思えないが。  少女に少年は「そうだね」と肯定を嘯いた。 「でもね、僕にも────殺してやりたいくらい恨んでる人、いるよ」  飄々と、常に見せている笑顔のまま、少年が言った。少女は「まぁ、そっか」追及しなかった。 「……で?」 「ん?」 「別アカウントで申し込んでまで、誰をやってほしいの?」  いつまでも現場にいる訳には行かないので、移動する。裏路地を、ずーっと通って。  少年がゲームのアカウントも、今や世界でだいたいの人がPCや携帯端末で使っているWebメールのアカウントも、別に持っているのを知っている。知り合いに鉢合わせしないために。もっとも、あの学校の連中に至っては復讐したい人間はいないだろう。陥れたい人間はいても。捨てアカなんぞは、イマドキ誰でもその気になれば取れるだろうが。わざわざこのためだけに人知れず新たにアカウントを取ってなんてのは、割と本気の人間が多い。  当然、それぐらい本気でなければこちらも請け負うことは出来ないけれど。少女の質問に少年はうーん、と唸って考え込む。あれ、本当はいないんじゃないの? 少女が疑っていると、少年はちらと少女を見遣った。 「身内って、狙える?」 「はぁ? 身内?」 「そう、身内」 「誰? 兄弟とか?」  困惑した少女に少年はううん、と、首を振った。  そして一拍間を置いて、言った。 「母親なんだけど……」  少女は目を大きく見開いた。  ──────“母親”。  少女の脳裏に、笑う女の顔が浮かぶ。  腹の底からおかしいとでも言いたげに、少女の前で笑っている。  少女がどんな目に遭おうとも、面白そうに笑っていた。  母親。  少女にとっては、鬼門の相手でしかない。 「どうかした?」  少年が少女へ訊いた。少女がフリーズしたのは時間にして僅か数秒と言う辺りだったけれど、少女の表情に感じるところが在ったのだろう。やや首を傾げて少女を窺っている。 「……。何でも」 「そう? そう言えば殺しとかはしないんだね」 「する訳無いでしょ! 何怖いこと言ってんのよ!」  さらっと、とんでもないことを口にする少年に少女が焦る。それでも少年は何でも無いように笑っていた。 「そうかな。この連絡方法なら足が付かないし、結構上手く行きそうだけど」 「いやいや、それはさすがに……」 「てかさ、充分犯罪じゃないの? “それ”だって」  少年が目で指しているのは、少女が持っている鉄パイプだった。その場で放っても良いのだが、何から辿られるかわからないので持って来ていた。鉄パイプには、血が付いていた。 「……」 「ねぇ?」 「世の中には、」 「うん」 「正攻法じゃ、どうにもなんないことが在って、どうにも出来ないで苦しんでいる人も、いるのよ」  少女が鉄パイプを握る力をぐっ、と込める。少女は少年を、この日始めて直視した。 「知ってんでしょ?」  皮肉を込めて言い放てば。少年は、一つ息を吸うと。 「うん……知ってる」  息を吐くみたいに、ささやかに答えた。  少女は自身のいじめとかそう言ったことを述べていたのだけど。  少年は、違うことを考えていたようだ。 「訊いて良い?」 「何」  小高い山を登って、ちょっとした展望台へ出た。少女は鉄パイプを放った。鉄パイプはからん、と音を立てて斜面を落ち、草木の中を消えて行った。 「どうして、母親やってほしいの?」  少女は柵を背にして寄り掛かり、少年へ尋ねた。少年も展望台の柵に腕を乗せ身を預ける。少女のときより、柵がぎしりと鳴った。 「どうして……か」  少年は少女を見た。少年は平時の笑顔だった。 「うん。……そっちは?」 「は?」 「どうしてこんなことしてるの?」  復讐代行、なんてことを。少女は後頭部をがしがし掻いた。ちょっとだけ苛っと来たのだ。 「質問を質問で返さないでよ」 「だって、さっきのは建前でしょ?」 “世の中には、正攻法じゃ、どうにもなんないことが在って、どうにも出来ないで苦しんでいる人も、いるのよ” 「つか、一般論か。創業理念てヤツ? 動機とは違うよね?」  きみがやる動機ではないだろうと、少年は笑う。少女は嘆息した。この期に及んで口を噤むことでも無いか。そんな気分で。 「別に正義の味方を気取りたい訳じゃないのよ」 「うん」 「単純にお金が欲しいの」 「お金」  少年の復唱に少女が頷いた。 「そ。お金。私卒業したら、家に帰りたくないからさ」  ここからは、少女の身の上話だった。 「私の家さ、母子家庭なんだけど、どうしようもない母親でさぁ」  少女の母親は生まれながらの愉快犯で在り淫売だった。男を手玉に取り、争いが起きても自身は傍観者を決め込み、面白おかしく生きていた。  こんな少女の母親は若くして少女を産んだ。この母親にとって産んだ娘は、良い玩具だった。 「金には困らなかったんだけどね。母親に見向きされたい男が貢し。顔だけは良かった……とかでも無いくせに」  とは言っても、母親は生活能力の無い人だ。母親が少女に手を差し伸べてくれたことは無い。少なくとも物心付くころの記憶には無い。母親が関心を抱く男によっては少女の世話をきちんとしてくれる者もいれば、まったく少女に見向きもせず何日も放置され飢えて汚れて辛うじて救急車を呼ばれないで済んだだけのときも在った。勿論、気分次第で暴力を振るう者もいた。けれども母親は何もしない。笑うだけだった。  何がどう面白くておかしいのか、ただ愉快げに笑っていただけだ。気紛れの愛情も、無かった。 「まぁ、そんな中でもすくすく育ったんだけどさ……」  ある日、少女が学校から帰ると見知らぬ男と母親がいた。十二歳。小学六年生だ。このころになると少女も母親への期待は微塵も無かったし、処世術とでも言うのか、対処法も理解していた。良い人なら挨拶はする。暴力を振るうなら地雷を踏まないようにする。無関心なら、こっちも無視。だけれど。  この日は違った。  ニヤニヤこちらを見て来る男。標準装備の笑みを浮かべた母親。ひどく気味が悪く、少女は警戒していた。  そうして。 「私の腕を掴んで……」  少女を組み敷こうとした。 「おかあさんは、わたしを売ろうとしたの」 「────」 「……あ。勘違いしないでほしいんだけど、」  少年が黙り込んだので少女が待て、と手を上げた。 「私は何もされてないからね」  少女が男に倒され覆い被さろうとしてもただ笑うだけの母親に、身の危険を最大限感じた少女は、手近に在ったまだ中に料理の残っていた深皿を掴み男の頭上に振り下ろした。 「殴ったよ。立ち上がって、何度もね。だって起き上がって反撃されたら困るし」  何度も何度も何度も。振り下ろした。  がつがつがつがつがつがつがつ……気付くと、頭を庇い蹲る男も、肩で息をしていた己も、残っていた料理に(まみ)れていた。男は生きていたけど、反撃は無かった。 「けど、ほっと出来なかったなぁ」  茫然自失で男を見下ろす少女。その瞬間、けたたましい声が響いた。 「何が怖かったってさ、母親が腹抱えて笑ってたんだよね」  何が面白くて何がおかしいのか。元からわからない人では在った。だけども、このときは心底わからなかった。 「もうね。自分の母親だけど別世界って言うか、宇宙人みたいだった」  少女は、このとき自己防衛の意識を改めた。 「もともと、自分の身は自分で守らないとって思ってたんだけどね。いやー、まさかそこまでとは思わなかったよ」  疲れた風にぼやいて、少女は柵から背を離し少年と同じように前を向いた。俯瞰した景色の中、転がって行った鉄パイプは見当たらなかった。 「……」 「────で?」 「へ?」 「そっちは何で母親に復讐したいの」  少女の問いに一瞬だけ黙考して、少年は観念したみたいに一度深呼吸する。少女にばかり話させて置いて、自らが話さない訳にも行かない。少年は語り出した。  曰く、「嫌いなのだ」と。  少年の家は裕福な家だった。少女をいじめる者共と違い、真の『富裕層』だった。  何でも代々官僚やら政治家やらと懇意で、実際そう言う役職に就いている縁戚も多いのだそうだ。 「ウチの母親はいわゆる女帝でね。恐ろしいことに、本家での発言権は父にも勝るんだよ」  母の一声ですべて決まる。その母親に育てられ、兄二人は文武両道で大学まで名だたる学校に通い、今では国を動かす中枢の予備軍なのだと言う。少年も成績優秀だった。少女に会うまで、いつもトップが普通だった。 「きみが来て僕は二位に転落した。けど、母親は……女帝は怒らなかったよ」  少年が笑う。 「だって、端から母親は……女帝は僕を、や、子供全員“手を掛けなくても出来て当たり前”って認識だったから」  二人も優秀な子も三人目の子である少年も、女帝にとっては気に掛ける相手では特に無かったのだ。 「三人目ゆえに適当で構わない、と言う訳じゃないみたいでね。兄弟皆、好きにしたら良いってさ」  少年も、二人の兄も兄弟で比べ、殊、劣っているところは決して無い。強いて出来だけで言うなら少年は兄たちを凌いでいた。兄たちも、この末恐ろしい末弟に戦々恐々としつつ、自己の研鑽に励んでいた。 「小言は無いのに発破は悪戯に掛けて来るんだよ。兄さんたちは、ご宣託を下賜されるたびに(おのの)いているんだよね」  女帝の助力は無いが、女帝の評価は下る。子供たちは切磋琢磨して行く。しかし女帝からしたら、これは至極自然なことだった。 「僕の前には、二人も優秀な兄、兄には追い越そうとする僕がいる。自動的に僕たち子供は、優秀に仕上がると思われてるんだ」  女帝の子だから。だので、たとえ少年が二番手になろうと自力で這い上がるだろうと、女帝は考えていた。 「つまり、今更きみに負けたって僕は構わなかったって、ことなんだけどね……」 「あんたが構わなくても、周りはしっかり構ってるじゃないか」  少年には取るに足らないことで、周囲のヤツらは勝手に青褪め、自主的にご機嫌取りに走っている。  結果、いじめられている、と。 「いい迷惑ね……」 「僕が言ってるんじゃないし、僕の友人も呆れているよ?」 「いじめて来るヤツら、みんな友達じゃないの?」 「まさか」  一回も話したことが無い人もいるよ、と少年は肩を竦めた。少女はうんざりして額を押さえた。押さえて、少年の友人とはいつも隣にいるあの男子だろうか、と頭の片隅に過った。 「……関係無い割には、あんた、いつも現場にいるよね」  少女がじとりと睨め付け言うと、少年は笑った。 「連れてかれるんだよ。僕に見せなきゃ意味無いみたいで」 「あんたが拒否れば無くなるんじゃないの?」 「拒否ったら、今度は証拠で画像か動画を送り付けて来るよ。そしたらどんどんエスカレートして大変なことになるでしょ?」  誰が責任取ると思う? 絶対僕でしょ。少年は首を傾け少女を覗き込んだ。少女は片手をひらひらさせて、離れろ、と無言で少年に距離を取らせようとする。少年は尚も笑みを深くした。 「ま、その場にいないで責任を押し付けられるより、きちんと監督したほうが良いんだよ」  それに、良いものも見られるし。少年の零した科白は理解不能だったが、推考するのはやめて置いた。  どうせ醜い人間の所業が見られるとかこんなところだろうと踏んでいるので。 「監督するくらいなら、やめさせてくれれば良いんじゃないの?」 「仮にやめさせたら、次はただの嫉妬でもっと非道い目に遭うかもよ? 嫌なら抵抗したら良いんじゃないかな? きみなら簡単でしょ」 「簡単でも、やったら大事(おおごと)な上、私が退学になるかもしれないでしょうが!」  少女が力説すれば少年はのんびり「それは困るなぁ」と笑った。少女からしたら笑い事ではないので、いやいや待て待てと言ったところだ。 「……理由はわかった。だけど、その母親は無理」  同級生や上級生、子供ならともかく。大人でも、犯罪に手を染めている屑なら破滅させられるけれども。  ただ単に家庭の不和となると難しい。しかも相手は国の運営に食い込む一族の女帝と来てる。よしんば法を犯していようと、揉み消せたりするのでは、と言う気さえする。 「だろうね。期待はしてないよ」  もしかしたら……と言う思いも淡く、抱かなくも無かったけれど、これは言わないで、少年は仕舞って置くことにする。詮無いことだ。 「気持ちは共感出来るよ。子供たち焚き付けて競わせて置いて、自分は高みの見物とか」  舌をべっと出して心の底から嫌そうに少女が吐き棄てた。己の母親に似たものを感じたのだ。  少女の嫌悪を素直に表す様子に少年は若干目を瞬かせ、次いで顔を綻ばせた。そこには何の含みも常時混じっていた自嘲も無かった。  が、少女は気が付かなかった。 「さて、どうする。もう帰る?」  少年に尋ねておきながら、少女は「私は帰る」と一方的に解散を言い渡した。少年から新しく依頼を受けることも無さそうだし、いる必要性を感じないためだ。手には携帯端末が在り、今日の任務遂行を依頼者へ送っているのかもしれなかった。送信が完了し端末を仕舞って少年を見ると、少年は考えを巡らせているのか俯き、ぼうっとしている。  しばし待って、置いて帰ろうかと少女が思い立ったのと、少年が微笑んで口を開いたのは同時だった。 「考えたんだけど、」 「は、何?」 「卒業したらさ、僕たち  駆け落ちしない?」  風が吹いて時が止まった。少女は驚愕に瞠目し少年を見詰めていた。少年は微笑を崩すこと無く少女を見返している。 「────……な、何言ってるの……」  ようやく搾り出せた音声は、動揺に震えていた。  少女は、いよいよ少年が未知の領域の生物に思えて来た。この感覚は、以前自身の母親に感じた恐怖に酷似していた。ひくりと引き攣る頬を実感しつつ少年の返答を待っていた。  少年は少女の動じている状態とは反対に平静だった。むしろ、いじめられても無頓着で不感症な少女が狼狽しているのが楽しかったし、うれしかった。  少年は吊り上る口角を指で押さえても止められず、あきらめて話を続けることにした。 「きみはさ、卒業したら家に帰りたくないんだろ?」 「そうだけど……」  就学中は寮にいるから安全としても、卒業したら出て行かなくてはならない。そうしたら、母親の元へ帰らねばならなくなるだろう。なので、可能な限り貯金をして置きたかった。普通のバイトは校則の問題も在るからしてしまうと目立つし、いじめる連中に見られればヤツらは喜々として学校に報告するだろう。と言っても門限を鑑みれば遠くでは働くのは難儀だし。ならばどの道多少のリスクを負うことになるのだし、腕にも覚えが在ったので復讐代行なんて始めたのだ。  始めた当初は、よもやこんなに依頼が来るとは思ってもみなかったのだけど。 「ウチの女帝はさ、子供たちを見放しているくせに手放す気は無いんだよね。ウチのブランドは在る、て言うか」 「だから、何?」 「自分の子だから上等な人間に育って当然の子供が、三人目にして出自不明な女と出奔して行方知れずになったら、良い復讐になると思わない?」  女帝と家の小さな汚点。瑕疵にも、報いる一矢にもならないだろうが、染み程度にはなるだろう、と少年は笑った。 「ね、復讐代行の仕事でしょ?」 「……違うと思う、し、そう上手く行かないと思うけど……?」  そもそも、スパルタ実力主義の女帝が我が儘に出て行く息子如きで痛むだろうか。少女には甚だ疑問だった。 「……て言うのは、建前で」 「ん?」 「僕さ……“普通の家庭”が欲しいんだよね」  普通の家庭。父親がいて、母親がいて、子供がいて、父親や母親が帰ると子供とご飯を食べて他愛無い話をして、休日は家族で外出して遊んでおやつ食べて……。 「そう言う、普通の家庭がさ」  少年は断じた。少なくとも、母親の顔色を窺って、父親も息子も気を張って神経を尖らせているのは普通では無いと。 「普通に下らないことでも笑える家が欲しいんだよ」  普通の家庭、と言う少年の言に少女もちょっと感じ入るものが在った。  一家団欒と言うものが在る家庭。  あたたかいご飯とあたたかい布団と、あたたかな体温。  少女にも、憧れは少し在った。 「それは、」  少女の目線は少年を逸れ、遠くを見た。 「わかるかも」 「……」  少年は吐息を混じらせ笑う。少女に歩み寄って、手を取った。 「じゃあさ。僕と作ろうよ。僕と逃げて」 「……」  少女は少年へ視点を戻す。少年はされるがままの少女の手に口付けた。途端、呆然と成り行きを眺めていた少女が少年を振り払う。 「いやいやいや無理無理無理無理」 「えー?」  少女の首をぶんぶん振っての拒絶に、少年は不満の声を上げる。少女からすれば必至の返事だ。何せ国家権力まで絡む相手なんて、死活問題だ。 「良いじゃない。きみとなら、良い家庭が築けると思うんだけど」 「無理! だって!」 「どうして? きみは家に帰りたくない。僕は家を出たい。僕は復讐代行希望で、きみは復讐代行履行者。親から逃げることが復讐になる……かもしれない。ほら、利害も立場も一致してるよ」 「そう言う問題じゃないでしょ!」  少女は叫んで、まず少年から逃げようと早足で歩き出す。少年は後ろから追い掛ける。足のリーチの差か、少年は遅れても付かず離れずで悠々と付いて来た。 「ねー」 「来ないで! 無理だから!」 「そう言わず」 「つーか、そんなこと言う前にいじめやめさせてよ!」 「えー。んー、じゃ、やめさせたら駆け落ちしてくれる?」 「や、ソレとコレとは話が別」 「えー……」  数年後。  少女は高校を卒業し、とある女性と養子縁組した。  少年は高校を卒業し海外へ進学すると家を出て行方を晦ませた。  ……。  少女の養子縁組先は、女帝と仲が悪く縁の切れた少年の親戚で。  少年は海外になんぞ進学しておらず、出国すらしていなかった。  二人は、そのまま足跡を消し、居場所も、生死さえ不明になった。  ただ。  少年の友人だけは計画を承知していたらしい。  友人に二人のことを訊くと、必ず大笑いの末、こう答える。 「さぁ? ○○と■■は知らないなー」  そりゃそうだ。  もう二人は○○でも■■でもないのだから。  結局、数年後紆余曲折の後、二人は駆け落ちしたのだと言うことを、 「ねぇー」 「無理!」  二人も未だ感付いていなかった。    【 了 】
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