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季節は夏。お盆休暇で俺は実家に帰っていた。
その日は、晴れていた。
セミの声が、休日の午後の街並みを包んでいる。昔から住んでいたこの地方都市は、ほとんど変わり映えしない街並みを俺に提供してくれいた。みんな汗だくで”ぐでーっ”としている。例えば、サラリーマンは熱そうにネクタイを外し、女子大生はハンカチで汗をふきながら化粧の具合を気にしている。
今日は、学生時代の部活の先輩に誘われて、昼間から一杯だ。昨日の夜、突然誘われたのだ。
『学生時代を思いだして、バカ騒ぎしようぜ。どうせ、おまえ、彼女もいないで、実家で暇しているだろう?』と。
一年ぶりの電話だったが、山田先輩はどうやらエスパーらしい。すべて、お見通しだった。
山田先輩だって、彼女いないだろうに……。
そして、俺はいつもの駅前に立っている。すれ違う人はみんな、はやくこの灼熱の大地から逃げようとしていた。俺も早くそうしたい。
「もう今頃は乾杯しているはずだったんだけどな……」
山田先輩は寝坊したのだ。昔から朝が弱かった先輩らしい。おかげで、俺は炎天下の中、三〇分も待ちぼうけになるらしい。気温は確実に三〇度を超えている。
「こうなったら、高い酒を奢ってもらいますからね」
俺はここにいない山田先輩に向かって、そう言った。
たぶん、先輩は寝坊していなくても、俺に奢ってくれるはずだけどな……。
そんなことを考えて、俺は苦笑する。
しかし、ここは本当に暑かった。このまま、三〇分待つとなると、暑くて火だるまになってしまう。
「このままならビールが美味しく飲めるけど、もう限界。移動して涼むか」
俺はそう言って駅前のデパートに避難しようとした矢先、背後からの声に呼び止められた。
「もしかして、高橋君?」
振り返ると、そこには白いワンピースを着飾った美人が微笑んでいた。麦わら帽子から、美しい黒髪がなびいていた。不思議なことに、この暑さで彼女は汗ひとつかいていなかった。
「やっぱり、そうだ。高橋君でしょ。うわー、久しぶりだね。全然、変わっていない」
はたして、彼女は誰だろうか? こんな美人と、俺は面識があったのだろうか。そもそも、こんな典型的なボーイミーツガール。俺なんかが出くわしていいのだろうか。
「ねえ、高橋君? 聞いてる??」
俺が、完全にフリーズしていると、美人さんは俺の顔をのぞき込んできた。とても白く美しい顔だった。というか、どうして俺の名前を知っているのだろうか。この方は? もしかして、山田先輩か。あのゴツイ感じの先輩が、いつの間にか性転換してここに……。寝坊と言うのは嘘で、これはドッキリか。部活のメンバーたちによる悪ふざけなのか。俺は周辺を見渡した。どこにもそんな様子はない。
「おーい、高橋君ってば?」
「す、すいません。聞いていますよ」
「よかった~。ねぇ、私のこと覚えている?」
彼女は真っ白な顔をくしゃくしゃにして笑った。とても可愛い。
「えっ、えーと」
「酷いな。忘れたの? あんなに図書委員会で、一緒だったのに……」
彼女はそう言うと、少しだけ拗ねた感じになって、頬を膨らませた。あざとかわいい。
ん、図書委員会か? たしか、俺が図書委員会に参加したのは、高校二年の時だけだ。ということは、もしかして、この美人さんは……。
「もしかして、立花先輩ですか?」
「やっと、思いだしてくれたね、大正解」
彼女は嬉しそうに笑いだす。
「えええええええええええええええええええええっ」
俺の絶叫が駅前にこだました。
※
「驚きすぎだよ、高橋君は~」
先輩は、素敵な笑顔で俺をからかっていた。
とりあえず、駅前の百貨店に入り、俺たちはベンチに座りこんでいた。ここは、外に比べて天国だった。
「だって、立花先輩、綺麗になりすぎなんですもん」
俺は正直にそう言う。
「そんなに変わったかな、私?」
「変わりましたよ。もう、すごく綺麗です」
昔からミステリアスな雰囲気を持っていたが、いまは何かが違う。深味みたいなものが漂っている。
「もう、ほめ過ぎだよ」
先輩は少し赤くなった。
※
あの時、俺はくじ引きで負けて、嫌々図書委員会に参加させられていた。昼休みの図書館当番がとても面倒だったから。そんな面倒な当番をしている時に、俺は先輩と出会ったのだ。
先輩は、どちらかといえば地味な感じのイメージだった。メガネをかけていて、ショートカットで、落ち着いた雰囲気の先輩だった。ただ、とても面倒見が良い先輩で、俺は色々と教えてもらった。
「貸し出しの時は、こういう風にするんだよ」とか「カギは、職員室にあるんだよ」とか。
そんな、会話から俺たちの関係は、始まったのだ。
「高橋君は、好きな本とかある?」
その日の昼休みは、暇だった。
「いや、俺はマンガばっかりで……」
「マンガだって、立派な本だよ」
「先輩が、国語の先生だったらいいのに」
「残念でした~。でも、いつかは国語の先生とかいいかも」
「いいと思います。先輩はいい先生になりますよ」
「ありがと」
そんな、何気ない会話が盛り上がった。少しずつ、俺はそれが楽しみになっていた。
「先輩は、いつも分厚い本ばかり読んでますよね」
「そうかな?」
「そうですよ。この前読んでいたのは、文庫本全七巻とか言ってたじゃないですか」
「よく覚えているね。ちなみに、今回は全五巻」
「うへー」
「でも、これも面白いよ。長いのが気にならないくらい」
先輩の読んでいた本は確か『レ・ミゼラブル』だった。
※
「先輩、今でも本好きなんですか?」
「うん、好きだよ」
「高校時代は、たしか『レ・ミゼラブル』とか読んでましたよね。俺が読んだら、頭が痛くなるやつ」
「あー、たしかに。あの本に一時期はまってたよ。主人公が銀の皿を盗んだ後のくだりが大好きで……」
「それ耳タコです」
このエピソードは、彼女から何度も聞いていた。
「でも、わたしは、あの本をちゃんと理解できていなかったのかもしれないな~」
彼女は、寂しそうにそう言った。
「え、あんなに何回も読んでいたのにですか?」
「うん。あの本の言いたいことがわかってないって、今、気がついたの」
「どういうことですか?」
「人生って何度もやりなおせるよって、簡単なこと」
憂いがある笑顔だった。
「まだ、先輩は先生目指しているんですか?」
「う~ん、一応ね」
彼女は少し愁いを帯びた笑顔で答えた。
「ごめんね、せっかく会えたのに、暗い感じになっちゃって……。気分を変えよう。バレンタインデーのチョコのこと、おぼえている?」
「ごほ」
いきなりの爆弾投下に、俺はむせる。
最後の図書委員集まりの時にもらったチョコのことだ。たしか、図書委員の男子に配っている≪義理≫チョコだったはずだ。
「あの義理チョコですよね」
「ふふ~」
先輩はいたずらっ子のような笑顔になった。
「なんですか」
「いや、まだ気づいてなかったんだ~と思ってね」
「気がつく??」
「うん。実はね、あのチョコ……」
「はい……」
「本命だったんだよ」
「ええええええええええええええええええええええええっ」
今日、二度目の絶叫がこだました。
※
「もう、驚きすぎだよ」
「いやだって……義理だって……」
「だって、恥ずかしいじゃない」
「そりゃあ、そうだけど……」
「ちなみに、高橋君は私のことどう思ってた?」
「どうって……?」
「私のこと好きだったでしょ?」
それは、確信を含んだ声だった。
「……」
「……」
少しだけ、長い沈黙が生まれた。あの時、立花先輩と会う昼休みがだんだんと楽しみになってくる自分がいた。義理でもチョコレートをもらって、飛び跳ねるほど喜んだ自分がいた。結論はひとつだった。
「はい、好きでした」
「やっぱりね」
彼女は寂しそうに笑った。
「わたしたち、両想いだったんだね」
「そうですね」
「あの時、ちゃんと伝えていたら、違った人生になっていたのかな?」
「まだ、間に合いますか?」
俺は、思わず言ってしまう。
「えっ」
「まだ、間に合いませんか? 俺たち? 俺は、俺は……」
「ありがとう。本当に優しいんだね。高橋君って」
「先輩……」
「返事は次会えた時でもいい?」
先輩はそう言って微笑んだ。泣いているような、笑っているような、どちらにも見える表情だった。
いつの間にか、三〇分が経っていた。
「じゃあ、私そろそろ行くね」
「はい、また」
「うん」
先輩の背中は、街中に消えていった。
「高橋君ともう少し早く会えていればな……」
彼女は別れ際にそう言ったような気がした。
「おい、高橋」
俺は、再び名前を呼ばれる。低く力強い声だ。今回は、絶対に山田先輩だ。
振り返ると、先輩は汗だくなのに、白い顔をしていた。
「先輩、お……」
遅いですよという声は、遮られた。
「おまえ……。どうしてさっきから、ひとりでしゃべっていたんだよ……」
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