エピローグ

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エピローグ

 紫衣は小学5年生の時、乙哉に庇ってもらったことがあるのだという。  感情の起伏が乏しい。そんな紫衣の性格は、当時クラスメイトである周囲の子供達には受け入れられなかったそうだ。 もっとも、武道において百戦錬磨の彼女に対して力で挑む猛者がいたわけはなく。 紫衣に対する悪意のこめられた嘲笑やちょっとしたからかいが、クラス内では日常化していたという。 直接危害を加えないから良いというものではない。この世には言葉の暴力というものだって存在する。それをひとり相手によってたかって…酷い話だ。 しかしそう言って彼女を擁護する者はいなかった。周囲の人間だけでなく…紫衣自身でさえも。  なぜなら、そんな仕打ちを与えてくる連中に対してですら、紫衣はなんの感情も抱かなかったからだ。怒りも悲しみも、辛いとすら感じない彼女は、その事態を放置していた。 無感情の中にほんのわずかに存在したチクリと刺す痛みも、紫衣は無いものとして黙殺した。 クラス連中は面白がり増長し、まるでストレス発散の捌け口とするかのように、無抵抗な紫衣への嫌がらせは続いたという。しかし妙なことだが、ある意味そこに被害者はいないとも言えた。  そんな折、神籬町内における小学校対抗のスポーツ大会が行われた。学校の恒例行事であり、そこには他校の乙哉の姿もあった。とはいえその頃、御三家の子供であり、同じ道場に通うという共通点を持ちながらも、ふたりは口をきいたことすらほとんどなかったという。  かくして、そんな行事の合間にですら、クラスの男子連中は複数人で紫衣を囲いこみ、人目につきづらい廊下の端に彼女を立たせた。 嗜虐的な笑みを浮かべた連中の気が済むまで、理不尽な罵声を無言のまま延々と浴び続ける紫衣。いつもの構図。 ただひとつ違ったのは、その場所にたまたま乙哉が通りがかったことだ。  乙哉は一目見るなり、そこにいた複数人をひとり残らずボコボコにしたという。その有様は少々やり過ぎなほどで、決着がついて尚、瞳を瞬かせ立ち尽くす紫衣の眼前で、怒りに背中を震わせた。 制止しようとした紫衣が思わず手を伸ばしかけると、乙哉は振り向きざま勢いよくその腕を取り――――― ―――紫衣を怒鳴りつけた。 「なんて?」  思わず宏行は口をはさんでいた。 「えっ?怒鳴りつけた?緋桜さんを?」  紫衣が頷く。  宏行はなんとも言えない顔をした。今、自分は少女漫画の一場面かのように、乙哉が紫衣を颯爽と助けたストーリーを聞いていたのではなかったのか? 「えーっとー……、まぁ……彼も不安定な時期だった時だし…言うて小学生男子の行動なわけだけど… …それは…なぜ?一応緋桜さんは被害者では…?」 「乙哉はわたしが無抵抗に甘んじているのを怒った」  言いながら、紫衣は関心なさそうな無表情で手にした参考書のページをペラリとめくる。  今いるのは、宏行らの学校の図書室の奥の小さい扉から繋がる細長い小部屋だった。いわゆる資料保管室らしく、長机とふたりが座るパイプ椅子の周囲には書棚やスチール棚が並び、埃の被った大判の蔵書やら資料集やらだのが、所狭しと積み重ねられている。 ひっそりと隠れたように存在するここは、教師の中にも知らない者がいるほどで、めったに人の出入りがないという。乙哉に教えられた穴場スポットだ。 「わたしは自分が周囲から疎外されるのは当然だと思っていた。……当時から、自分が異質である事は理解していたし、良好な関係を構築できない原因がわたしにあることは明白だった。今もそれは変わらない。……だけど乙哉は、そんなもの関係ないと言ってくれた。理不尽なことは自分でおかしいと言え、そうしないで誰が自分の気持ちを守るんだって」  紫衣は紙面に視線をやりながらも、どこか遠くを見つめる眼差しをした。  当時、誰からもそんな言葉をかけられたことはなかった。紫衣は心底驚いたのだそうだ。 「それから、自分の気持ちというものをよく考えるようになった。感情だって全くないわけじゃない。それを気づかせてくれたのは乙哉だった」 「……そっかぁ」  その時、入口のドアが開く音がした。その音が鳴り止むのとほぼ同時に、室内に明瞭な声が響く。 「あ!なにサボってんだ!」  入ってきたのは、資料集とノートを抱えた乙哉だ。  だらしなく机に頬杖をついていた宏行は肩を跳ねさせた。ぎこちなく振り向く。 「……サボってないよ~」 「ほんとかよ…さっき言ったとこは解けたのか?」 「え――っと……ちょっと待ってね」  乙哉が胡乱げな視線を向けてくるのに対し、誤魔化すように宏行は笑う。乙哉が呆れて溜め息を吐いた。 「試験まで間に合わねぇぞ。ったく…」 「ごめんて~」 「いいから、さっさとやらんかい」  ハイ!と勢いよく返事をしてシャープペンを握ると、宏行は慌ててワークテキストに向き直った。  現在、宏行は迫りくる学年末試験に向けて、紫衣は後日仕切り直しとなった編入試験のために、乙哉に勉強を見てもらっているところだ。  短気な印象ばかりが強い乙哉だが、これが案外面倒見が良く、こと勉強に関して怒り出したりすることはなかった。勉強が苦手な宏行にもあの手この手で丁寧に、根気強く教えてくれる。  数学の問題に頭を捻りつつも、宏行はそっと乙哉を盗み見てみた。  特におかしなところはない。 ――――あの後。常世の境界を脱出する直前で、乙哉は全身を強張らせ突然気を失った。その場の全員慌てたが、その後ほどなくして乙哉は意識を取り戻した。夢から醒めきらないような、茫然とした表情をして。    その後本家の車を呼び病院に精密検査を受けに行く宏行らと別れ、乙哉は会話もそこそこに、病院を断固拒否した紫衣ともども、それぞれ家に向かうタクシーに乗り帰路についた。  それから数日間、乙哉は学校を休み―――湍先輩によると、自室からもほとんど出てこなかったらしい。  ちなみに園部も出席停止中だ。生徒らには体調不良とだけ伝えられ、事情が公になることはないだろうが、御三家の息のかかった病院に入院し、心理カウンセリングを受けているらしい。  再び登校してきた乙哉は、教室に入るなり宏行の元に真っ直ぐ向かい「よう」と声をかけてきた。 いつも通りのぶっきらぼうな態度ではあるものの、その表情はまるで憑き物でも落ちた後かのようにどこか晴れやかな気がした。  一瞬ざわついた教室内に気づかない振りをして、宏行も笑って挨拶を返したのだった。    かくいう宏行の方にも、ちょっとした変化があった。とはいえ、こちらは必ずしも歓迎できる形ではなかったが。  それというのも、意図せず無断外泊となり帰宅した宏行を見るなり祖父が大激怒したのだ。祖父はその晩一睡もせず、警察に届けるべきかどうかと悩みながら受話器を握りしめていたそうだ。  心底宏行の身を案じていたらしい祖父に、無断外泊の理由どころか、病院で検査を受けたことすら言い出せるわけがない。 誤魔化すしかない事実も含め、大層申し訳なく思う宏之だったが、延々続くお説教の中で、祖父が不甲斐ない宏行の両親に対し怒りを覚えており、同時に同じくらいの思いで孫を心配していたことを知ったのだ。 突然身を寄せた宏行を迷惑に感じているとばかり思っていた。しかし、寡黙な祖父なりに宏行のことを大事に思ってくれていた。 正座で項垂れながらも、宏之の胸の中は温かくなんとも言えない気持ちで満たされたのだ。 「紫衣、これ暗記用」  声に反応して顔を上げると、乙哉が紫衣に一冊のノートを渡していた。受け取った紫衣が中を開くと、几帳面そうな黒字が並んでいる。所々色を変え、丁寧にマーキング線まで引かれたそれは、要点のまとめられたお手製の勉強ノートのようだ。 宏之はわめく。 「えーっ、ずるくない?ヒイキだ!」 「贔屓じゃねぇ、紫衣は短期集中型なんだよ」 「ぼくだってけして長期集中に向いてはないよ!ぼくのはないの?」 「やかましい。基礎を理解しろ、基礎を」  大袈裟にショックを受けた顔をする宏行を見て、乙哉は歯を見せ、屈託なく笑った。    窓から覗く空は晴れ晴れと明るく、いくらか和らいだとはいえ、いまだ肌を刺すような冷たい風が吹き荒ぶ。  しかし雪解けは確かに進み、土壌からは所々新芽が顔を出し始めている。  もうすぐ、春が来ようとしていた。
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