序章

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序章

 正直、この記憶が本当にあった出来事かどうかは怪しい。  なんせ歩くのも覚束ないような、物心だって果たしてついていたか知れないような時分のものだ。 それもまさしく夢にありがちな、さっきまで自分の視界だったはずが、突然視点が切り替わって、気づくと幽体離脱したみたいに自分の頭頂部を見下ろしていたりする。  内容だって大したものじゃない。登場人物は自分とあの人の二人だけ。  幼い頃は離れの小さな屋敷に住んでいた。手狭だが縁石で仕切られた庭はいつも庭師にきちんと手入れされていて、本邸に越した後もよく抜け出しては忍び込み、縁側からこの庭を眺めていた。 随分前に屋敷ごと取り壊されたが、日当たりがよく、青く茂った植え込みと控えめに咲く季節の花で彩られる景色は嫌いではなかった。  その庭と縁側と繋ぐ土造りの通路で、記憶の中のあの人は長いスカートが汚れるのも構わずしゃがみこみ、両手を大きく広げて俺を呼ぶ。   厳しさのひとかけらだってない優しい声音で呼ばれ、俺は目の前の母親しか見えなくなる。早くあの人のもとに行きたくて、励まされながらよたよたと懸命に進む。 そうしてようやく辿り着くと母親に全身で抱きしめられるのだ。(同時にそんな二人を俯瞰で眺めてるシーンも頭の中に存在する)  たったそれだけの曖昧な記憶だ。だが無事に辿り着いた瞬間に重なる笑い声や、腕の囲いの温かさ、柔らかさまでも覚えている気がして、ただの夢だとも言い切れない。  これが夢じゃないとしても、さっきの視点の不自然さにもあるように、必ずどこかしらねつ造や補完がされていると思う。だけど、もう何度も繰り返し再生してきたせいで、どこからどこまでが本当の事なのか、あるいはすべて想像の産物なのか判断がつかないのだ。  だけど忘れたことはない。だってもう、これだけなんだ。  あなたの顔さえ、もう思い出せないから。
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