三章  常世の境界

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 鼠は巨大な目と口を限界まで開き、その間で長い舌が千切れそうなほど浮き上がっていた。  ふいに乙哉は恐ろしくなった。死に直面した醜い動物の顔の中に、一瞬クラスメイトである園部の顔が見えたような気がしたからだ。  おそるおそる眼帯の上から右眼に触れた。  呼吸が早くなる。頭の中で警報が鳴り響く。  この右眼は乙哉にとってなによりも忌まわしいものの象徴だった。乙哉から大切なものを奪ったこの眼が再び、災禍を招こうとしている。冷や汗が頬を伝う。 「やめろ…!」  心臓が嫌な音を立て、気づくと静止の言葉が口をついていた。 「各務くん?」  古賀が驚いた顔で乙哉を見遣る。 「―――やめろ!!」  突如、鼠に巻き付いていた光が分散し、乙哉の右眼に逆流してきた。強烈な光に目の前が眩み、何も見えなくなる。  脳髄が揺れ、体がバラバラになるような衝撃だった。  右眼の上にかろうじて貼りついている眼帯を手で押さえる。  頭が朦朧とし、意識を失うと思った時、ふいに周囲の淀んだ空気を切り裂くような静謐で清浄な気配を感じた。膝をついた体勢のまま、片眼で周囲を見回す。  ある一部の空間が不自然に四角く切り取られており、内側の光の中から複数の人影が出てくるのが見えた。  今度は何だと身構えた乙哉だったが、その三人の姿を認めると安堵して全身から力を抜いた。それは皆、乙哉のよく知る人物だった。  ひとりは焦った顔をした湍で、乙哉のもとに駆け寄ってくる。もうひとりは巴で、少し離れた場所で険しい表情を浮かべていた。  そして最後の一人は、乙哉を守るように背中を向け、巨大鼠の前に立ちはだかった。後ろ姿しか見えないが、右手に持つ何かを敵に向けて構えているらしい。  肩に下りる滑らかな髪と、セーラー服のスカートが静かに(なび)く。  思わず名前を呟いていた。 「紫衣……」  それきり、乙哉は完全に意識を失った。
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