十章  光

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 それにしても、と彼は言う。 「乙哉が組んでいたあの印はなんだい?初めて見た形だったけれど」  乙哉がしていたのと同じように手を組み合わせてみせる青年を見て、矢吹は「あぁ、」と声を漏らすと、さもなんてことない事のように答える。 「あんなもの適当ですよ。その場で思いついた組み方を伝えただけ」  青年はきょとりと瞳を瞬かせる。 「…ということは、効力はないのかい」 「ただの暗示です。乙哉に力を使えると思い込ませるためだけの」 「――なんだ、印の最後に人差し指と親指をつけていただろう?印相の中には、五大元素のうちそれぞれの指に風と空のエレメントを割り振るものがあるから、てっきりそれで例の現象が起きたのかと」 「読書好きの乙哉が実は知っていた可能性もなくはないですが…、ま、こういった知識はあえて避けていたようだし、偶然の産物でしょう。どちらかというと、前者の五指を合わせる動作に重きを置いたつもりです。全身の統合を助け、精神安定と集中を高め、エネルギーを循環させるために」  青年は今度は可愛らしく小首をかしげてみせた。 「それだと、指だけでなく掌全体合わせたほうが手っ取り早くないか?」 「仰る通り合掌は基本ですが···それだとまるで神頼みしているみたいでしょう。洒落(しゃら)くさいのでやめたんです」  しゃあしゃあと言い放つ矢吹を少しの間穴が開くほど見つめると、青年は耐え切れなくなったように噴き出し、肩を震わせた。 「クク…それを認めてしまうと、としては立つ瀬がないね」 「関係ありません。···わたしを教団の連中と同じに扱うと許しませんよ」 「そんなつもりはないけれど。まぁまぁ、彼らも結構便利だよ。特に人攫いに関しては、思いのほか優秀であるらしい。おかげで、園部の中身を前もって知ることも、暗示をかけてスイッチを忍ばせておくことだってできただろう。そのくらいしないと、彼には境界でやっていけるだけの想像力ってものが欠けていたしね」 「···あの小動物捕獲用の檻もですか」 「そうだね、彼が自身と鼠を同一化していたところからイメージを広げてみたんだ。面白かっただろう?」  実に楽し気な様子の主を困ったように見つめ、矢吹は溜め息を吐いた。 「まぁ…、あなたが楽しめたのならなによりです、志杞様」 「うん、ありがとう」  志杞と呼ばれた青年は再びにこりと微笑むと、視線を眼下に向けた。滝口から落ちる水流を受け止め、波打ち広がる水面が光を反射しきらめている。 「――ま、本当に楽しくなるのは、これからだけれどね」   志杞は社内に向き直ると欄干から離れた。矢吹に手を貸し立たせ、連れ立って社殿の奥に消えていく。 目にする者が誰も居なくなった背後のその景観は一変していた。  いつのまにか深緑は赤や黄に葉を色づけ、紅葉が見渡す限りの渓谷を彩っていた。季節のみが変化したその場所は。先刻に劣らぬ絶景である。  しかし朱塗りの欄干から身を乗り出さないと目が届かない、滝つぼの周囲。  そこは苔生した岩場となっており、そこに作務衣に似たお仕着せを着用したおびただしい数の人間が、岩辺に折り重なるようにして倒れていた。黄褐色の作務衣の色で一帯が染まっている。 ―――彩り鮮やかな紅葉と対比するように、それは異様で背筋が冷たくなる光景だった。  中には河に半身が浸かっている者もいたが、誰しも微動だにせず、皆一様に空虚な視線を虚空に向けている。  岩場を避けるようにして、甘く香ばしい芳香を放つ薄い花弁のケシの花が、儚く咲きほころんでいた。
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