十章  光

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   その女は、一本の煙草を実にうまそうに吸った。 あ~…うまい。妊娠がわかってから止めてたのよね。 長く吸わないでいると匂いが無理になるって聞いたことあるけど、 あたしは違うみたい。 あ、でもここって何でも叶う世界なんだっけ? あたしが美味しく吸いたいって思うからそうなってんのかな? よくわかんないけど、とにかくうまいよ。出してくれてありがと。 こんなに長く吸わずにいられたなんて、自分でもびっくり。 昔なんか、ちょっとでも嫌なことあったらもう、吸わずにはいられなかったんだけど。 お腹に子供がいるって思うだけで全然平気だったもん。 しかし死んだらこんな所に来れるんだね~。意外~…ってか死後の世界とか 思えば深く考えてなかったかも。…え?違うの? めっちゃ綺麗な場所だけど…本当に天国じゃないの? …まぁ、もし天国にいたら、それはそれで意外だったけど。 じゃあお兄さんも神様ってやつじゃないの? ものすごい美人だしさ~神様ってほんとにいたんだって感心してたのに。 …つかなんであたし高校のセーラーとか着てんの? 思い入れのある恰好?あ~…、うっわ…ネックレスまであるんじゃん… どっかになくしたはずなのに。 うーんお守りっていうか…なんとなく意地になって持ってただけみたいな。 各務家のこと?随分詳しいんだね、あなた。 もう超めんどくさいよ、あの家。 しきたりがどうの、家の者としての振る舞いがどうのってさぁ やかましいわって感じ。 ほんとにそんな風に振る舞ったら、それはそれで気に食わなさそうだけど。 はははは。 服とかもさ~全然自由にさせてくんないの。 おばさんらが用意してくるやつ、めっちゃ地味で全然好みじゃないんだけどさ。 や~着てた着てた、あんまし態度悪くしてたら子供までいじめられそうじゃん。 言うこと聞いておとなしくしてたよ~ まぁ小言は聞き流してたし、離れに住んでたから、基本のんびりしてたけど。 べつに何とも?嫌われんのなんか慣れてるもん。 ガキだしお金ないしさ。子供産んで育てられなかったらどうしようって思ってたから、あの家に住むの全然アリだったよ。 むしろちょっと良い衣食住提供してもらえてラッキーかもって、 ご当主には感謝してるくらい。 えー、ひとりじゃないって。乙哉がいるからふたりじゃん。 生まれる前から、ずっとそうだったよ。 そう、さっきも言ったけど、当たり障りないよう一応気遣ってたってのにさ~ あのクソババァども、乙哉に対してめっちゃ当たり強いわけ! あっ、ババァって言っちゃった…、まぁもう死んでるしいいか、ははは。 右眼?そりゃ最初はビビったよ~マブタないし、瞳は真っ赤だしね。 ホコリとかばい菌とか入るかもって心配したけど大丈夫みたい。 ほんと不思議。 よかった~って安心したらもう可愛いばかりよ。溺愛よ。フフフ。 でも可愛くない?両目で色違うのなんとかっていうんだって…何だったかな? そうそう、オッドアイ!すごくない?可愛いでしょ、チャーミングでしょ。 チャーミングだろって、おい。 呪い?だってご当主とじいちゃんが言ってたけど、あれずっと昔に各務家がかけられた呪いらしいよ。知ってた?乙哉悪くないじゃんね~。 女の子の姿した蛇の女神様だって。でも実際姿はよくわかんなかったな~。 夢で戦ったのよ、あたし。まぁそのせいで死んだっぽいけど。 でも乙哉の体乗っ取ろうとしててさ、…ざっけんなでしょ。 ぜってぇ黙ってられねーだろ、それは。 …話逸れちゃった。 呪いを強く受けた子供がこの時代に生まれてくるって、占いで前からわかってたんだって。最初は坊ちゃん…正妻の子がそうだろうって予想してたけど、 いざ産まれてみると違ったから、知沙子サン心底ホッとしたみたいね。 だから、乙哉がその子供で間違いないだろうって。 名前もじいちゃんが考えたんだけどさ、女神イコール乙女だから乙哉って。 …そのまま過ぎじゃない?男の子に『乙』って変じゃないのかな?女っぽいって将来いじられないかな? あ、別に『乙』の漢字に女って意味ないの? え!弟って意味あんの!?やっぱそのまんまじゃん! しかしお兄さん、若いのによく知ってるね。 それともこれって常識だったりする? あたしバカだし、勉強とかしたことないからさ、よくわかんないんだよね。 え?あたしはべつに名前なんか何だってよかったもん。 そりゃあんまり変な名前だとどうかなって思うけど、あたし学ないし、名付けのセンスとかも自信ないしさ。 …これって冷たいのかな? でも良い母親がどういうものなのか知らないんだよね。 こんなのが母親で、乙哉が大きくなったら嫌われるかなーって思うけど、ぶっちゃけいいんだ。あたしは100万倍の愛をあげるけどね! どっちかっていうと、親を嫌っちゃダメだとかって悩ませる方が嫌かも… えーだって、子供が自分の意思持つのなんか当たり前じゃん。 だからさっさと親離れしてもいいよって思ってる。 エラソーに言っといて、実際その時になんないとわかんないけどさ。 少なくともあたしは永遠に子離れできなさそうだけど。 でも乙哉が生まれてさ…ううん、生まれる前から…あたしのとこに来てくれた時点で、もう、なんていうか…それでもう充分なんだよ。 乙哉のおかげであたし救われたんだよ。良いことなんかひとつもなくて…死に切れないってだけの人生だったけどさ。この子が来てくれたから生きようって思えた。そしたらもう、他のことなんか全部へっちゃらだったよ。 無事に産まれてきてくれて、あたし、本当に幸せで…… そばで乙哉の成長見れないのは、ほんとさ…ほんっと悔しいけど… ……大きくなったらどんな子になるのかな~… でも、人間生まれたらさ、どんなんでもやっていくしかないのよ。 光しかない人生なんて有り得ないもん、絶対。 だから乙哉もさ、きっと険しい道を歩いていくんだろうけどさ、泣いても絶望してもいいから、ひとつでも幸せ見つけて、それを大事に生きてほしいよ。 ―――真っ暗闇にいたあたしにとって、乙哉がそうだったみたいにさ。 ……喋りすぎたわ。元々こんなベラベラ喋るキャラじゃないんだけど。 お兄さん聞き上手だね。 聞いてくれてありがと。 一本吸い終わるし、そろそろ行くわ。  体にあちこち包帯が巻かれた、荒んだ瞳をした女子高校生の姿だったその人は、話しているうちに、いつのまにか清楚な恰好の若く美しい女性へと変貌していた。  優しい光に包まれた常世の境界で交わされた誰かとの会話。これはその誰かの記憶だ。  薄茶の猫っ毛を長く伸ばした女性は最後に何事か呟くと、ニカリと歯を見せて笑った。そのあとは背を向け、振り返ることなく、堂々とした足取りで光に向かって歩いていく。  想像していたより遙かに口が悪く―――、想像していたより遙かに強く優しく、そして息子への愛情深い乙哉の母、詩奈の最期の姿だった。
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