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上司のせいでお客に迫られています
終了、だった筈なのだ。
なのに何故こんなことになったのか、アツシは最早悟りを開きそうな勢いでツラツラと考えていた。
ベラベラと目の前で口を開くのはピアスを沢山つけた茶髪のお兄さんだ。
さっさと離れたいところだが両手がゴミ袋で埋まっている上に相手が壁際に追いやってくるので動けない。
「ねー、本名教えて?」
「……嫌です」
ロイさんは客が誘い行為をすることもスタッフが客に本名を教えることも禁止している。
なので安心して働ける筈なのだがたまにこういう客は現れるのだ。
「あ、L○NEやってる?」
「やってません」
やってても教えるわけがない。むしろ何故すんなり教えてもらえると思っているのか。
「アッシュ君もたまには遊びに行こう、楽しいトコ教えてあげる」
意味深に肩を撫でられてアツシの腕にブワッと鳥肌が立った。それに合わせて思わず涙腺が緩む。
「い、行きません」
「そんな怖がんないでよー」
ゴミを押しつけるようにして抵抗するが相手はビクともしない。むしろ楽しそうにこちらを見ている。
性格が悪いことこの上ない。珍しくしつこい客に当たってしまった。
だいたい「たまには」とか言っているが初めて見る客だ。常連でも何でもない。
こんな客いただろうか?
あまり広くない店の中でもあちこち動き回っているので一人一人の顔までよく見ていない。彼がいたかも全然思い出せなかった。
「……ねぇアッシュ君ってさ、オメガ?」
しきりにこちらを誘っていたはずの男が急にアツシの顔を覗き込んでくる。
オメガと言われて思わずギクリと肩が震えた。
アツシのフェロモン量は少ないらしいし、相手にアルファの気配はない。多分ベータだろう。
アツシは素知らぬ顔で首を横に振った。
「……違います」
「ロイさんが君のこと気に入ってるみたいだったからどんな子か気になってて。勝手にオメガかと思ってたよ」
――またか……!
あの人はなぜかアツシを気に入っているらしい。多分いじり甲斐があるのだろう。
たまにそれを客にもこぼす事があるらしい。
だいたいそうすると嫉妬の眼差しを向けられるか、逆に興味を持たれるかのどちらかなのだが――今回は後者だったようだ。
「俺ロイさんみたいな人も勿論良いけど君くらいの子が好みだな」
くらいって何だ。顔面偏差値の話か。
確かに顔面偏差値でアツシはロイさんの足元に及ばない。
アツシだってパーツは悪くないのだが如何せん華がないのだ。しかし今日あったばかりの他人に言われるのは少々腑に落ちなかった。
だからと言って絡まれたいわけではない。
どうせロイさんじゃ相手にされないと思って大人しそうなアツシの方へ来たのだろう。
いいから大人しくロイさんの方へ行ってくれ。
口に出してないのでその気持ちが伝わるわけもなく、相手はどんどんこちらへと詰め寄ってくる。
アツシだって背は高い方だがヒョロいので力負けしてしまう。
ガシッと肩を掴まれる。結構痛い。
「ねぇ、本当にオメガじゃないの?」
「違うって、言ってるじゃないですか」
相手の視線が絡みつく。今まで散々ロイさん絡みの変な人に遭遇してきたがこんなにしつこくオメガかどうか問われた事などない。
もしかしてロイさんが何か言ったのだろうか。いや、違うと思いたい。
不安と緊張から指先がどんどん冷えてくる。
顔が強ばったのを相手は見逃さなかった。
ニタリと、嫌な笑みを浮かべられる。
怖い。
ひゅ、と呼吸に合わせて喉が鳴った。
相手の手が首元へ伸びてくる。
「ぃ、や……!」
無意識に拒絶の言葉が出た所でタイミングよく裏口が開いた。出て来たのは件の人物だった。
「アッシュ君、 ゴミ捨てに行くだけで随分掛かってるねぇ」
艶やかな笑みを向けられて肩が跳ねた。
怖い、けど助かった……。
逆に相手はつまらなそうに舌打ちをする。
「それで、そちらはカレシ君かな?」
「違います」
分かってて聞いてくるのだから本当にタチが悪い。
思わず睨みつけるとクスクスと笑われた。
「じゃあお店の中戻ってて」
と言われてもこの人が退いてくれなければ入れないし、そもそも退いてくれたなら早々にここから離脱していた。
それに気づいたらしいロイさんはお兄さんに近づくと顔を覗き込んでニコリと笑う。
「少しお話したいんだけど、いいかな?」
「は、はい……!」
横から見ても非の打ち所がない完璧な笑みだ。
正面から見てしまったらしい彼はガチガチに固まってロイさんに釘付けになっている。
――あー、これは。
「分かりました」
動かなくなったお兄さんを今度こそ押し退けてゴミを捨てるとアツシは大人しく裏口へと向かった。
途中、ロイさんの前を通るとボソリと耳打ちされる。
『帰らないで待ってて』
思わず顔を見るとニコリと笑われた。分からないよう深呼吸をする様にしてため息を吐く。
コクリと頷くとその場を後にした。
指先を握ったり開いたりしながら何とか店内へと戻ったアツシはのろのろと時計を見上げる。いつの間にか閉店時間はとっくに過ぎていた。
慌てて表側に回るがcloseの看板は既に掛かっていた。
「……はぁ、つかれた」
ロイさんには頷いたが、待つ気は更々ない。アツシはさっさと着替えると荷物を確認した。
「かえろ……」
「アッシュくーん」
「ひっ!」
さっさと逃げようと入り口を振り返ると、ロイさんが扉のところに腕組みをしてもたれ掛かっていた。
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