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錆びついてキイキイと軋む自転車を、「それ」は屋敷への道の手前で停めた。
ここから先は、鬱蒼と茂る竹林や雑木林に阻まれ、獣道すらない。
その奥に、俗に「七つの家」と呼ばれる建物がある。
忘れ去られた場所に。
小型のペンライトで足下を照らしながら、生い茂る植物を掻き分ける。
かつては道路があった証拠に、ところどころに標識の残骸と判別できるものが傾いでいる。
その先には、数十年前に開発計画が頓挫し、建設途中で打ち捨てられた屋敷が建っている。
正確には、七軒の家が並んでいるのではない。
それぞれの棟が独立して見えるような、広大な別荘になるはずだった、ということだ。
蔦がびっしりと外壁を覆い尽くし、建物であることすら一見しただけではわからない。
「それ」は、蔦を払って扉のあった穴から廃墟の中へ入った。
汚れて傷んだ床と、ひび割れたコンクリートが剥き出しの壁。
天井も雨漏りの染みがあちこちに広がって変色しており、蜘蛛の巣の張ったシャンデリアの電灯は外れているか、割れている。
それなのに、なぜかぼんやりと仄青く屋敷内の様子は見える。
玄関ホールを入って右側の、食堂として設計された部屋に入ると、「それ」はずっと手にしていたものを無造作に放り投げた。
「――これで、何本目?」
暗がりの中でアンティーク調の椅子に座っていた女が、問いかけてきた。
ぞろりと長い黒い髪に、大きなマスク。青白い顔の下半分は隠れている。
「65本目」と「それ」は答えた。
「そう……あと、何人だったかしらね……わたし、キレイかしら。わたし、キレイかしら。どうかしら」
自分から訊いておいて途中で興味を失い、女は虚空を見つめてぶつぶつと独言を始めた。
「わたし、キレイかしら、ねぇ。どう? わたし……あぁ? うそ、うそつくんじゃないよ、うそつき、うそつきはしね、しねよ!」
突如興奮して立ち上がると、女は疾風のように食堂を出て走り去った。
その手には出刃包丁が握られていた。
女の去った方から目を逸らし、「それ」は放り投げた先を見た。
邸宅らしい大人数向けの長い食卓に積み上がっているのは、人間の左腕だ。
下の方は、肉が腐り落ちたりネズミに囓られたりして白骨化している。
乱雑に重ねられているいくつもの意思のない手は、悪趣味なオブジェのようでもあった。
――あと一つ。
あと一つで達成できる、と「それ」は考えた。
そこへ、テケテケという音とともに、両腕だけを使って男が近寄ってきた。
ケッケッケ、と妙な笑い声を上げ、「コロシテヤッタ、コロシテヤッタ」と燥ぐ。
男には、下肢がない。
無言で佇む「それ」の周囲を、「コロシテヤッタ、コロシテヤッタ」と囃し立てるようにぐるぐる何度か回ったと思うと、突然ぐたりと床に胸をつけ、啜り泣き始めた。
「アシガ、アシガ……ウゥ……ドウシテ、ドウシテ」
腕をじたばたと床に打ち付け、煩悶する。頭の中に残響が刻まれるような、哀切な泣き声だった。
だが不意にケロリと泣くのをやめ、身を起こして再びテケテケと食堂を出ていった。
食堂の隅、木材が外から打ちつけられた窓際には、汚らしい灰色のざんばら髪に、襤褸のような紫の着物を纏った老婆が、ずっと張りついている。
そうしながら、紫に染めた長い爪で、何かを口に運んでいる。
抉り取った肝臓だ。
時間が経ち、黒ずんで干涸らびているが、老婆は気に留めず摘まみ続けている。
特に旨そうというでもない、ぼんやりした表情で。
食い尽くせば、また調達に行くだろう。
何のために? と問うことには意味がない。
彼女は、そういうものだからだ。
無論、ここにいるモノはみんなそういうものだ。
この乾ききった、虚無的で、無意味で、徹頭徹尾情のない世界に、早く自分も一体化したい、と「それ」は思った。
「おや、キミも“お楽しみ”からお帰りかい?」
声をかけてきたのは、赤い外套で身を包んだ男だ。
どこを見ているのかわからない虚ろな目をしているくせに、変に頬を上気させている。
「狩り」を終えてきたばかりなのだろう。
「それ」は、少し頬を歪めた。
といっても、包帯の下で、端からはよくわからないが。
「うふ、今夜の“悪い子”も可愛かったよ……『助けて、お母さん』て何度も、愛らしい声で鳴くんだよぅ」
赤い外套の男が粘着質な口調と荒い呼吸で顔を寄せてきたので、「それ」は思わず身を退いた。
そうしてしまってから、まだそんな感情が自分に残っていることに、絶望した。
しかしそれも、間もなく消えるはずだ。
あと一つ腕を狩れば、自分は完全なバケモノに――彼らの一員になれる。
やっと、おさらばできる。
下らない人間の世界に。
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