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振り返っても、自分には「思い出」がない、と「それ」は考える。
消し去りたい不快な過去ばかりだった。
父親の怒鳴り声、母親の悲鳴と泣き声、殴打と罵倒。
家族というのはそういうものだと、子供のころは思っていた。
けれど一方で、なぜこんなにも毎日が楽しくないのか、心の内でずっと答えを求めてもいた。
成長してから、似たような境遇の仲間欲しさに、はぐれ者の集団に身を置いたこともある。
しかし、外見も醜く、何の能力もなく要領も悪く、悪事を働くには小心すぎた者には、常に他者の蔑みと悪意と暴力がまとわりついた。
呪いのようだった。
どこにも、所属することはできなかった。
人間と関わる場所を避けて、ネットカフェや鉄道の構内を放浪した果てに、公園の四阿で降りしきる雨の冷たさに震えながら、パトロールの警官に「出ていけ」と蹴られた腹の痣を眺めていると、その鬱血が何かを訴える奇怪な顔のように見えてきた。
なんとなくそれに語りかけているうちに、その人面疽の方が、他の人間よりもよほど近しく思えた。
もう、人間でいたくない。
人間でいても、何一ついいことはない。
バケモノになりたい。
記憶も、心も、何もかも捨てて、バケモノになってしまいたい。
そんなとき、本物のバケモノ達に出会った。
「おうおう、順調だなぁ」
物陰から、中年男の顔をした犬が現れた。
弛んで下卑た顔に、みすぼらしい毛並み。
犬らしい愛くるしさは皆無で、およそ醜怪としか言いようがない。
後ろ足で器用に耳の下を掻きながら、人面犬は欠伸をした。
息が臭い。
山積みの左腕の腐敗臭に勝るくらいだ。
「これであと一人かぁ」
「それ」は頷いた。
あのとき、「それ」の前に姿を見せたこの人面犬は、心の内を見透かしたようににやりとして、望みどおりにしてやろうか、と言ったのだった。
――66人殺して、左手を切り落とせ。そうすりゃ、おめえもおれ達と同じになる。
1人目を襲ったときは、腰が引けていてひと思いに仕留めることができず、獲物も金切り声で大騒ぎしたために気が動転して、無様に滅多斬りするはめになった。
その晩は酷い悪寒と吐き気に苛まれて、高熱を出した。
2人目は、もう少し冷静に殺すことができた。
3人目は、覚えてもいない。
一人、また一人と殺すたびに躊躇いは消え去り、戦利品の腕しか意識に上らなくなる。
確実に人間から離れていく自分を、心地よく感じた。
罪悪感も、葛藤も、後悔もない。
自分が求めていたのは、凪のようなこの境地だと思った。
「んじゃぁ、最後の試練だな」
人面犬は、卓上の腕の山を一瞥して言った。
「おめえが本物のトンカラトンになるための、ま、イニシエーションてやつだ」
人面犬は、ついてこい、と顎をしゃくった。
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