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食堂を出ると、先ほど通ってきた玄関ホールに、首から上のないライダースーツの男が立っていた。
男は、肩に何者かを担いでいる。
スカート姿の下半身からすると、人間の女のようだ。
「おぅ、ご苦労さん。そこへ置いとけ」
人面犬は、横柄な態度でライダーに一応の労いの言葉をかけた。
彼は、荷物そのものへの無造作さで女を床に転がした。
叩きつけられた痛みで、女は仰け反って呻いた。
ライダーはそのまま、そこに突っ立っている。
人面犬の忠実な手下、というより、木偶だ。何しろ、頭部がない。
「それ」は女を見下ろした。
派手なわりに安っぽい化学繊維のドレスを着て、乱れてはいるが、長い髪は手間をかけてコテで巻いた形跡がある。
人前に出る仕事の女だろう、と「それ」は考えた。
女は打ちつけた腕や腰を庇いながら起き上がり、自分を運んできた首なしのライダースーツの男や、人面犬や、包帯人間の姿に思考停止した様子で、引き攣った表情のまま口を開けていた。
「それ」は、人面犬の方を見た。
下卑た中年男の顔が、笑いに歪んだ。
「その女、覚えてるか?」
「それ」は戸惑った。
女に視線を戻すが、怯えきったその顔にまるで心当たりはない。
首を振った。
「そうかぁ……」
人面犬は、のそのそと女に近づいた。
「ひ、っ……!」
女は膝行って後ずさりした。
意地悪く人面犬は鼻先を突き出し、「おい、名前は?」と問うた。
女は今にも泣きそうな顔で、何を答えたらよいのかわからない、というふうに首を傾げた。その表情に――微かに、「それ」の記憶に触れるものがあった。
見た、ことが、あるような気がした。
「おい、名前だよ名前ぇ。言えんだろ? そんくらいよぉ」
臭い息から顔を背け、目尻に涙を滲ませながら、女は必死で言おうとした。
「ま、まい……」
「全部だよ、全部」
「わ、渡部麻衣……」
「――だってよ。聞こえたか?」
人面犬は、「それ」の方を向いた。
渡部麻衣。
凝視する。
付け睫毛と濃いアイメイクに縁取られた、大きな目。
恐怖で八の字に下がった、整った眉。
途方に暮れた、泣きそうな顔は――
――あたし、馬鹿だから。
昇降口の、夕方の陽射しの中で――
――教えて。あんたのこと拝んじゃうから。
渡部、麻衣。
――そういう、名前だった、ような。
「……、あ」
「それ」は、思い出した。
ずっと昔、まだ中学生という生き物だったころ。
どういうきっかけだったのかさえ忘れてしまったが、一度だけ、他人に頼られたことがあった。
同級生の女子だった。
「ね、宿題教えて」
それまで口をきいたことがあったかどうかも定かではない、ただの同級生というだけの少女が、急にそう話しかけてきたのだった。
それも、成績は下位の自分に。
なぜなのか、という不審な思いが先立って、突っ慳貪な対応をした。
すると少女は、「お願い、あんたのこと拝んじゃうから、ね?」とおどけた動作で手を合わせた。
たとえ冗談にしても、他人から手を合わせられるようなことがなかったので、非常に驚いた。
まったく正解を出している自信はなかったが、放課後の教室で数学の問題の解き方を教えた。
少女は神妙な面持ちで説明を聞きながら、時折「待って。今の、補助線のとこ。よくわかんないよー」などと大袈裟なジェスチャーをした。
「終わった! ありがとうね」
感謝される、というのは、心の中の何かを満たしてくれるのだ、と知った。
なんとなくそのまま一緒に下校することになり、他愛のない話を、主に彼女が一方的にしていた。
昇降口の下駄箱で上履きを脱ぎながら、「あたし、馬鹿だからさ」と諦念したように、緩く笑った顔が、やけに大人びて見えた。
「そうだ。お礼に奢るよ」
途中で、彼女は学校の近くのカフェに誘った。ありふれたチェーン店だが、当時は立派な「大人の店」に思えた。
向かい合ってコーヒーを飲み、暗くなるまで喋ってから(やはりほとんどの時間喋っていたのは彼女だけだったが)、最後に自分の分を財布から出そうとすると、彼女に手で制された。
「だめだめ、ここはあたしが払うって」
その後、一度だけ映画を観に行こうと誘われた。
B級コメディ映画だった。
それから間もなく、彼女――渡部麻衣は、学校からいなくなった。
教師によれば都合で転校したという話だったが、生徒の間では、妊娠したからだ、という噂もあった。
真偽を確かめることは不可能だった。
それきりだ。
苦く暗い記憶の中で、唯一、他人が好意的に接してきたもの。
ヘドロ塗れの過去の奥底から、思いもかけない清い何かが浮かび上がってきたことに、「それ」は動揺した。
困惑しきった目で人面犬を見やると、化け物はあっさりと告げた。
「その女殺して、腕切れよ。それが最後の試練だ」
「?!」
「いや……ッ」
彼女――渡部麻衣は、蒼白になった。
「やめて! 許して……お願い!」
背負った日本刀の、重さを感じた。
これを――振るうのか。彼女に。
「おいどうしたよ。なりてえんだろ、おれ達の仲間に」
人面犬は、嗤笑した。
醜悪極まりない笑いだった。
――そうだ、バケモノになりたい。全部を捨てたい。そう思って……
「お願い! 殺さないで!」
甲高い声で彼女は叫び、そして、膝をついて手を合わせた。
――お願い。
「お願いだから!」
何十人もの命乞いを、無様で無駄だと嘲ってきた。
何をどう懇願されても、殺すのに。
けれど――
「ホラホラ、早くしろよぉ」
人面犬は、彼女のドレスを咥えて「それ」の方に引きずろうとした。おそらくは、ただ恐怖を煽りたいだけだろう。
彼女はしかし、なりふり構わず必死で抗った。
「嫌ぁっ! やめて……やめてぇ!」
「それ」の手が震えた。
彼女の悲鳴が、狂態が、煩わしいと感じる感情の一方で、胸から指先までを鋭い痛みが貫いた。
今まで、経験したことのない痛みだ。
それがどこから生まれたのか、「それ」にはわからなかった。
震える手を、背中の日本刀に伸ばした。
「ひぃっ!」
「そうだ、いいぞぉ」
まるでスポーツ観戦に野次を飛ばすかのような、人面犬の口調。
腰が抜けたまま、這いずって逃げようとする彼女。
こちらを振り返った顔は、涙と鼻水で化粧ごとぐちゃぐちゃだった。
「な、んで……あたし、なの……なんで……っ」
嗚咽まじりに、問う。
それは、「渡部麻衣」だからだ。
――殺せば、なれる。望んだものになれる。
殺すのなど、わずか数分で終わる。
その数分の先に、渇望した安寧がある。
手を、伸ばせ。
日本刀を抜く。
彼女の目が、見開かれる。
――これで安寧が、手に入る。
白刃を振り上げる。
そして――
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