翌日

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「そうだ、預かったプリントなんだが」  お茶の二杯目を飲んだあたりで唐突に三年生が言った。どうやら涼むだけ涼んで本題を忘れていたらしく、若干バツの悪そうにする。  僕はクッキーを一口で食べようと試みて、思ったより大きかったそれに口を塞がれながら頷いた。 「美味しいな、このクッキー」 「……味わからなかったです」 「一度に詰め込むからだ。ほら、お茶」  咳き込む僕へまるで姉のような世話を焼く。焦る勢いのまま飲み干して、二三度咳き込んだ。みっともない。  三年生は僕が十分に落ち着くのを待ってから、大きめの封筒を取り出した。 「これを」 「どうも」  両手で差し出されたので両手で受け取る。薄いグリーンの上から隅の方に学校名が印字されている。予想より分厚かったが、中身を確かめるつもりはない。  僕が一瞥もせずに封筒を脇に置いたのを目で追って、三年生は言った。 「君は学校に行っていない様子だが」 「まあ、はい」 「なぜ?」 「……いろいろとありまして」  なかなかデリケートな質問である。しかし尋ねる声には躊躇も遠慮も感じられず、かえって答えやすく思えた。  僕は珍しいことに自分から会話を広げてみせた。 「どうですか。学校で、何か新しいことはあったりしますか」 「新しいことか、うーん」  たいして興味もない質問だったが、三年生は顎に手を当てて真面目に考え込んでいる。  かと思えばふと顔を上げて、「二年生だったな?」と聞かれた。 「はい」 「二年生、二年生のニュースか。……そうだな。F組の高木が、昼休みの廊下で公開告白をして一時期騒ぎになっていたな」 「は?」 「それから男子バレー部の二年が道端でおばあさんを助けたとかでちょっとした英雄扱いを受けている。それから二学年のフロアから自動販売機が撤去されて抗議運動が起きている。それからA組の槙野が今年の文化祭ポスターのイラストを担当した。それから……」 「ちょ、ちょっと、待ってください」  思わず遮った。三年生は口を閉じ、目の前でパタパタと振られる僕の手を不思議そうに見る。 「なんでそんなに詳しいんですか。聞いたのは僕ですけど、そんなに……」  恐ろしい生き物を見るような顔をした僕に、三年生はなぜか胸を張った。顎をあおって誇らしげな顔をする。  その表情を見て、僕は初めて、彼女に既視感のようなものを覚えた。  ……この顔を、前にも見たことがなかったか? 「自慢じゃないが、交友関係と情報網は広いほうなんだ」 「へえ……」 「演劇部ではこう噂されている。『公演の招待客の半分は、私の友人である』」 「演劇部?」  噂の内容も確かにすごいが、僕の意識には別のことが引っ掛かった。演劇部。彼女は演劇部に所属しているのか? 何もおかしなことはない。ないが、先ほどの既視感と合わせて考えるとどうしても見逃せなかった。  三年生は頷いた。 「ああ、演劇部に所属している。次の文化祭が最後だがな。……それに、役者ではなく脚本だ、私に演技はできないから」  違う、と僕の奥底にいる僕が叫んだ。悲鳴とか訴えに近い声。  僕は無意識に胸を抑える。  違う、あなたは、とても演技が上手かった。  心の叫びに引っ張られるようにして徐々に浮かんできた記憶に、僕は青ざめた。  まさかそんな。いや、確かにそうだ。ああなんて、  なんて馬鹿な奴なんだ、僕は。  見ず知らずの三年生が来たと思った時点で、彼女を追い返しておくべきだった。平気なはずがない、契約に触れないはずがない。だって彼女は、僕の〈青春〉なのだから! 「名前を、聞いてもいいですか」  僕は恐る恐る言った。発する言葉の一言一句、その全てが爆発寸前の危険物だ。  冷や汗をかきだした僕に対して、三年生はニッといたずらめいた笑みを浮かべた。 「古崎麻琴(こさきまこと)だ。やっと気がついたか? 佐野氷雨(さのひさめ)」 「……ああ」  髪が伸びたな、と思った。あのあどけない幼い顔立ちが、尖った顎とかすっと滑らかな鼻梁とかに隠れて全然わからなくなっていた。  彼女の言うとおり、本当に、なぜ今まで気づかなかったのだろう。  確かに記憶の中の古崎麻琴も、茶色い綺麗な髪をしていた。自身に満ちた笑顔が似合っていた。瞳は宝石みたいな明るさでまっすぐ世界を見ていた。  一緒に立った舞台の上で、彼女は僕よりもずっと素晴らしい演技をし、綺麗な声で歌っていた。  どうして忘れていたのだろう。  そして、彼女は覚えていたのだ。僕らが幼い頃すでに出会っていたことを。僕のことを。  その記憶だけを理由に、こんなところにまで来てくれた。 「まったく、まさか忘れられているとは思わなかった。もしや同姓同名の別人かと思ったよ。それか、記憶喪失にでもなったのかと」  僕は黙って俯いた。驚きや喜び、様々な感情を処理しきれずにいる。  同時に蘇った鮮やかな記憶が洪水を起こした。思わず胸を抑える。痛みのような懐かしさを覚える。  恐慌状態に陥った僕に比して、古崎麻琴は穏やかだった。 「改めて、久しぶり。ヒサメ。またこうやって会えて嬉しいよ」 「そ――」  そんなことを言わないでくれ。  言葉にすることは叶わず、僕は息を呑んで右耳に手を押しつけた。茶色い目が異変を感じ取って丸くなる。 「どうした、顔色が」 「オルゴールが……っ」 「は?」  警告の音色が、ゆっくりと耳の裏を撫ではじめた。オルゴール。美しいはずのそれは、僕に直接の命の危険を感じさせる。  これ以上は駄目だ。 「出て行ってください」 「何を……」 「出て行け、今すぐ、僕の目の前から消えろ!」  力の限りに叫ぶ。極度のパニックに陥って、視界が白くかすみ、もう彼女の姿も見えない。  真っ青な顔で汗を垂れ流しながら蹲る僕は、傍から見れば異様だったろう。  急に出て行けと喚かれて、それでも古崎麻琴は怒らなかった。驚いた顔くらいはしたかもしれないが、少なくとも、次の言葉はどこまでも優しく穏やかだった。 「わかった、そうしよう。お茶をありがとう」  そうして立ち上がり、僕の前からいなくなった。  蹲った僕は足音や気配を感じる余裕もなく、幻聴か現実かわからないところで扉の閉まる音を聞いてから、はっとした。  顔を上げる。一人になった部屋の中は静かで暗い。全身にかいた汗がみるみる引いていき、こんな時期だというのに僕は寒さに震えた。  オルゴールの音は、いつの間にか聴こえなくなっていた。
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