夜稲荷

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夜稲荷

 庭に出た。お菊は顎をあげ、厠の屋根を見上げていた。板葺きで、裏通りに面した側だけ瓦を葺いている。  夜稲荷(よいなり)は、ふて腐れたように立ったり座ったりを繰り返すことで承知之助の気を引こうとしているようにみえた。 「·····あれが見えるのか?」  承知之助がお菊に声をかけると、少女は顎を戻して、ふっとやわらかい笑みを浮かべた。そのなんとも大人びたしぐさに、承知之助はハッとうろたえた。  なおもお菊を問い(ただ)そうとした時、頭上から夜稲荷の一喝が投げられた。少女を構うより、こちらを見るべしということらしい。 「おい、おい、おいっ、いいかげんにしてもれえてぇもんだ」  江戸っ子を気取ってはいるものの、夜稲荷は、もともと阿州鳴門のあやかしだ。もっとも本人がそう語っていただけのことで、確かめる(すべ)はない。   「何用(なによう)だ?すでに阿波の鳴門に戻ったとばかり思っていたが┅」 「おまはん、なに言よんえー」  地訛(じなまり)を響かせたまま、厠の上からぴょんと()び、宙でくるりと回転する間に背丈が見る()に縮まって、承知之助の肩に乗った。  とまった、というべきか。  屋根の上に居たときは、すらりとした細身の長身だったが、すでに本来の背丈、ほぼ1尺五寸(約45cm)に戻っていた。脇差(わきざし)の長さとほぼ同じ。地域によっては、夜稲荷(よいなり)のことを、ワザシとも()ぶ。そのことは、承知之助も夜稲荷から聴いていた。  お菊の視線は、その夜稲荷からはずれない。驚いたそぶりもみせず、表情一つ変えない。  ジロリ。  夜稲荷がお菊を睨んだ。すると、お菊の櫛が、ケタケタケタと笑いだした。 「なあんだ、ロクサンだったのか!」  吐き捨てるように夜稲荷が言った。刹那(せつな)、承知之助が体躯(からだ)を揺すった。その拍子に、夜稲荷が肩から落ちた。ぽんと宙返りして、地に着いたとき、夜稲荷の背丈が伸びて、承知之助よりもやや高い町人風体の痩せ男に戻っていた。厠の屋根に居たときの姿だ。 「おまはん、なに、しょんえー」  どうやら感情が(たかぶ)ると、お国訛りが口をついて出るらしい。 「や!す、すまぬ。ロクサンを知っているのか?ならば、教えてくれ、どういう意味だ」 「ふん、教えてやんねぇ。それより、こっちが()きてぇぐらいだぁ。こいつは、ちと、厄介だ!(しょう)()よ、ロクサンが相手じゃ、おめえの命、増えるどころか、減る一方だぜぇ!」  承知之助を〈承の字〉と気安く呼んだ夜稲荷が、もう一度、お菊の髪のなかを勝手にもぞもぞと動いている櫛を(のぞ)き込んだ。  お菊は金縛りに()ったように微動だにしない。唇が左右上下に揺れている。その口から、童女のことばとはおもわれない(つや)がかった声が飛び出した┅。 「そのほうども、黙らっしゃれ。ほんに(うるそ)うてかなわぬぞよ」  ぽかんと口を開けたまま、承知之助は夜稲荷に(たす)けを求めようと眉を動かして示した。  ところが。  夜稲荷はうーんと唸ったまま、櫛の微妙な動きから目を離さなかった。    
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