解ける紐

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「昨日は気が緩んじゃったのか、すぐに寝てしまって……」 「休むのはいいことだわ」  笹川は、注射針を指で弾いた。細い針の先からは、じわりと液体が滲んだ。 「……すこしチクっとするわよ」 「はい」  慣れた手つきで、針を華の足に刺していく。ぷつりと皮膚を破り入っていく液体に、なにも痛みを感じない。目の前で刺されているというのに、視覚と痛覚が一致しない気持ち悪さに、華は眉間にしわを寄せた。 「痛かったかしら」 「あ、いや……大丈夫です」 「そう……効くといいのだけれど」  液体を入れ終わった注射針を抜くと、手際よく注射跡にコットンを押し付ける。華に自分で固定するように頼むと、慣れた手つきでゴム手袋を外した。笹川はトレーに注射器とがちゃがちゃと片付けていた。 「あの」 「なに?」 「私の他に、誰かいるんですか?」  その言葉に、かたずける手がピタリと止まった。 「どうして?」 「昨日廊下を歩いている人の声が聞こえて……“フジタ”さんだったかって、何か聞こえたので……」 「……上着のボタンを外すわね。聴診器を当てたいから」  1つ、2つ、ボタンを開け、聴診器を当てる。生ぬるい部屋で、冷たい聴診器にびくりと肩を跳ねさせながら、沈黙が流れる。  先ほどの質問はどうなったのか、聞いてはいけないことだったのか。……なぜ聞いてはいけないのか。聴診器によって強制的に終わらせられた会話は、華の中でぐるぐると不安を生んでいった。 「……次は背中ね」 「あの」 「この世の中の惨状を見て、私はあのSPのように過度に期待を持たせるようなことは言えないし、それによってさらに不安にさせてしまうかも知らない」  それでもいい?と問いかけるその言葉自体が、もう答えのようであった。 「は……い」 「そう……1人いるわ。あなたの聞いた通り、“フジタ”さん」 「その人も、私のような……」 「いいえ」  華の話を区切るかのように、笹川はバッサリと切り捨てた。 「完全に発症している」  華の目が、ピクリと泳ぐ。 「完全に……」 「街中を徘徊しているものと同じ。まだ症状の改善は見られないわ」 「そんな……」  笹川は、華をまっすぐな目で見た。 「……私たちはまだ、あの状態から治療するのを諦めたわけではないということよ」 「笹川さん」 「だから、華さんにも協力してもらっているの」  力強い瞳で、華を見つめた。その眼差しに、華は、この人を信じるほかないのだと、下唇を噛んだ。 「だから、あなたも諦めないで頂戴」 「……はい」  グルルル、と、獣がうなるような音が部屋に響いた。……お腹の音だった。重苦しい部屋に響くその音は、お手本のような鳴り具合で、なんともコメディチックだった。笹川も、華も、いきなりの音に目を見開ききょとんとする。 「う……すいません」 「食欲があるのは良いことだわ」  お恥ずかしい、と華は、頼むから黙ってくれと言うように眉を垂らしながらお腹をさすった。 「大したものはないけど、すぐにご飯を持って来るわね」 「いや!そんな……」 「遠慮するほどのご飯じゃないわよ」 「すいません、ほんとに……」  自分の腹をまるで別人格のように沈める、恥ずかしがる華に、笹川は可笑しくなり頬を緩めた。 「さて、それじゃあ持って来るわね……」  笹川がひとつ、華のボタンを閉めたところで、手の甲にポトリ、と液体が落ちた。透明な液体だった。涙かと、どうしたの、と笹川顔を上げた。  違った。  瞳は涙で潤んではなかった。 「え……」 「華さん……」  唾液であった。  まるでうたた寝してしまった時のように、口の端から唾液がツウと一筋垂れていた。まさか、お腹が空きすぎて垂れたわけではあるまい。  進行している。  笹川の頭に、その言葉が浮かぶ。 「え……やだ、なんだろう、笹川さんの手に……ごめんなさい」 「……薬の副作用で筋肉が弛緩してしまったのかもしれないわね。少なからず薬には副作用があるから」 「そういうのも、あるんですね……それじゃあ、効いてるってことかな」  びっくりしちゃった、と、自分の服の裾で唾液を拭い取った。 「すぐ、食事を持って来るわね」 「あ、ありがとうございます」  震える手を悟られないようトレーを持ち、華に背を向けて部屋を出ようとドアノブに手をかける。 「笹川さん」 「……なに?」 「……ありがとうございます」  ……なにが薬の副作用だ。森宮のように過度に期待をさせないと言っておきながら、真実を伝えるようなことを言っておきながら、はっきりとした進行を見てもなにも言えなかったじゃないか。  けれど、これは進行ね、なんて言ってなにになる。いまの私にはそれを止めることも遅らせることすらできないのに、なにを真実を話す、過度に期待を持たせないと言えたのだろう。  私はなにを。  笹川は、振り向かず、いいのよ、と呟くと、部屋を出て言った。
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