解ける紐

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青白く、所々紫の斑点腕に注射針を刺す。すこし弾力のある肌は、なんなく針を受け入れた。 打ったそばから聞くわけもなく、藤田はただただ、ウゥウゥと唸るだけだった。 「これで効いてくれないと、死ぬ人がいっぱいいるのよ」 話しかけたって、意味がないのは分かっていた。この空間で、笹川と藤田、たった2人きり。そのひとつひとつの応答に、どうか答えてくれまいかと願いながら。 「すこし話しましょうか……」 藤田の寝転ぶベットに、パイプ椅子を寄せた。藤田が暴れても届かない範囲に椅子を置く自分が、保身的に、冷たい人間に思えて、すこしだけ、ベットへ近づけた。 「藤田さん、内閣総理大臣の秘書なんでしょう?」 “だったんでしょう”そう言ってしまったら、酷な気がした。意思疎通も取れなくなってしまった藤田に対しても、言ってはいけない気もした。ひんやりと冷えたその部屋に、手枷とベットフレームがぶつかる金属音が嫌に響いていた。 「私はテレビでしか分からないけれど、結構無茶する総理じゃない。法案押し通したり……大変だったでしょう」 そんなことないですよ きっと藤田ならこういうであろう。手元にある顔写真は、とても穏やかな男性だから。当たり前に返事は無く、まるで本当の会話のように笹川の幻想だけが返事をした。 「その若さで総理の右腕ですもの、すごい手腕なんでしょうね」 いやぁ、総理がすごいんですよ。自分なんて、全然。 「……あなたの、ご主人様、いま大変そうよ」 ……そうらしい、ですね 「早く答えを出せって、急かされてるみたい。」 そうですか 「秘書を噛ませて、実験台にさせてる、切り刻んでる、人権侵害、倫理違反……マスコミは騒いでるみたい」 切り刻んでるですか、まるでフランケンシュタインだ 「“なにをモタモタしてるんだ”」 世間一般の声は、そうでしょうね 「……“なにを守ってるんだ”」 そう言われてるそうよ、と笹川は呟いた。 国民第一に考えたら、いいんです 「あたなが今起きてくれないと、総理の頑張りが、守ったあなたの場所が、なくなってしまうわよ」 ガタガタと、痙攣によるベットの軋む音だけが響く。 「いま効いてくれないと、あなたの頑張りだってパアなのよ」 なにを綺麗事を。藤田の頑張りにかこつけて、自分が報われたいだけなのだ。分かってる。笹川は、自分が一番ずるいのは分かっていた。 いきなり立ったため、パイプ椅子がカシャンと倒れる。 「お願い」 藤田に、一歩近付く。 「あなたが頼りなのよ」 こう願いを乞いなおっていれば私たちは必要ない。そんなの、笹川が一番よく分かっていた。 「藤田さん」 防護服も着ていない、笹川は、今までで一番藤田に近付いた。ガラス玉のような目は、静かに笹川を向いていた。 先ほどまで痙攣していたというのに、シンと静かになった。スウスウ、と寝息のような呼吸まで聞こえた。 まるで笹川の声に耳を傾けているかのような目に、笹川は少しだけ、期待してしまった。 「藤田さ……」  「笹川さん!」 突然、ベッドから離された。森宮が引き離したのだ。開き切った目をひとつ瞬くと、目蓋の裏に乾燥した眼球が張り付くのが分かった。 「森宮さん」 「笹川さん、感染したいんですか?!」 ふとみた藤田は、いつもの通り、唸り、痙攣し、頭を振り回してきた。 「1度、静かになった気がして……」 「何を……」 勘弁してください……笹川は、ただ暗い部屋で、森宮に抱きしめられたままだった。
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