限界を超える時

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限界を超える時

彼は、いつもぎりぎりの生活を送っていた。冬の寒い日でも、狭いアパートで暖房器具もなく毛布にくるまって夜を過ごした。自家発電と称し、腕立て伏せや腹筋運動をしながら、汗を流して寒さに耐える日々が続いた。お陰で、彼は体力もあり、どんな仕事にも不満を言うこともなく、フリーターではあるが、その日暮しを続けていくことができた。 ところが、2月になって珍しく雪が積もるような寒い日の深夜、アパートの彼の隣室から出火し火事になった。燃え盛る炎と真っ黒な煙の中、やっとの思いで彼は外に出た。命だけは助かったが、大切な物を持ってくるのを彼は忘れてしまった。彼は、少し躊躇したが、消防署員や警察官の静止を振り切って、火の中に飛び込んだ。 「大切な物を取ってくる!」 彼は、叫んで突入する。 「やめろ!」「危ない!」「死んでしまうぞ!」 怒号が飛び交う中、命知らずで彼は火の中へ進んでいく。 必死の思いでたどり着いた三階の自分の部屋の前で彼が目にしたのは、隣室のまさに火を出したであろう住人の女性と子どもだった。二人は、倒れ込むようにして、もがいているように彼には写った。彼を発見して、助けてもらえると思ったのか安堵の表情を少し見せた。 彼は、また少し躊躇したが、二人を抱きかかえて炎の中、崩れかかりそうな階段を急いで降りた。隣室の女性と子どもはぐったりしている。髪の毛や衣服も焼け焦げてしまっている。ろくに息もできず、真っ黒で何も見えず、熱さで何の感覚もないまま彼は外に出た。拍手が聞こえたような気がしたが、彼はそのまま意識を失った。 彼は、3日ほど入院したが、退院するや否やマスコミが殺到し、ヒーローのように取材され、たちまち有名になってしまった。 「素晴らしい行動力ですね」 「人命救助できた感想は?」 「どのようにして体を鍛えていたのですか? 」 「よく火の中に飛び込んでいきましたね」 「命知らずだとは思いませんでしたか?」 「あんな炎の中に入っていけるなんて、バケモノですね。」 とか、いろいろと好き勝手なことを言われて、彼も返答に苦慮していたのだが、「大切なものを取りに行った」ということは口に出せず、いつの間にか「火の中に飛び込むバケモノ」が活字として週刊誌などに取り上げられてしまった。 その後、彼はテレビ取材まで受けることになった。何もかも焼けてしまい、住む場所もなく、苦しい生活の中、少しでもお金がいただけるならと彼は、藁をもつかむ心境だった。筋肉美を披露したり、重い物を持ち上げるトレーニングまがいのこともさせられた。どこまで耐えられるかの実験データも取ることになったが、さほどいい結果は得られなかったようだ。 テレビ番組の特番「火事場のくそ力大会」に、彼にも出演依頼がきた。苦しい生活のため彼には「No」という答えはなかった。スタジオの眩しいライトが、体を鍛えている芸能人やスポーツ界の有名人に当たっている。彼に当たっている光は、ろうそくの灯火のように見えた。 収録が始まった。握力や背筋力の体力測定から始まり、重量挙げの競争や腕立て伏せの回数の測定や鉄棒のぶら下がり持久力調査など様々な勝負だった。しかし、彼は周りのすごい筋肉マンやスポーツ選手のようにはあまりいい結果は出せなかった。 最後の種目は、「火事場のくそ力大会」というぐらいなので、本当に炎の燃える中での競技だった。バスにに乗り込み、撮影場所に移動し、野外で火事場を再現するという大掛かりなセッティングだった。燃え盛る炎の中から、時間内にどれだけ重い物を運び出せるかという競技だった。 どの選手も悪戦苦闘し、なかなか運び出せずにいた。彼も、同じで最初は出たり入ったりで何も持って出ることはできなかった。炎がさらに大きくなり、大掛かりなセットが崩れていく中、彼は意を決して中に飛び込んだ。そして、しばらくして大きなタンスやソファーを頭の上に乗せて、大きな声で吠えるように叫びながら、彼らしき黒いモノが出てきた。カメラマンやスタッフや出演の選手たち、みんな驚愕の眼で彼を見ている。 「バケモノだ!!」 彼が、家事のときに、命がけで取リに行った「大切なもの」とは、………… 彼が幼少の頃、田舎の医師から手渡された診断書であった。それには、「火遊びをしていて、全身火傷をした際、精神の忍耐の限界を超え、水膨れの症状から身体が巨大化し鋼鉄のような皮膚となり、一命を取り止めた。特有の体質であり、今後の生活には厳重なる配慮を要する。」と記されてあった。 完
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