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 三十分後、村本さんの車が僕のアパートの横に止まった。彼女は満面の笑みを浮かべ僕に向けて手を振っていた。 「お迎えありがとうございます」 「なんのこれしき」  村本さんの弾む笑顔が空に浮く。気づけばさっきよりも雲が減り、ところどころ晴れ間が見え始めている。 「よし。問題児の橘晴回収完了」  村本さんはそう言うと、僕にいたずらな笑顔を向けた。その笑顔に、重苦しかった心がすっと軽くなった。やっぱり村本さんはすごい。 「本当に反省してます」  僕がそう言うと、彼女は大きな声で笑った。それと同時に、車が動き始める。 「やさぐれてんでしょ」 「多分そうです」 「まったく。まだまだおこちゃまね」  反論の余地もなかった。今の自分は怖いほど、子供っぽく、愚かだった。 「言いたいこといっぱいあるけど、とりあえずカフェに着いてからね」  村本さんは前を見たままそう言った。どんなことを言われるかはある程度予想がついている。どうせなら今すぐこの場で、この愚かな自分を殴ってほしい。そう思ってすぐに、他力本願な自分が嫌になった。どうやったらこの負の渦中から抜け出せるだろうか。  移り変わる景色に取り残されるように、暗闇の中の自分は、無言のままじっと前だけを見つめていた。  十分も経たないうちに目的地に着いた。目の前に小さく構える洋風の建物は、いつしか晶乃さんと行って断念したカフェに似ていた。 「まだちょっと早いかな?」 「まだモーニングの看板が出てますね」 「本当だ。あともう少しでランチの時間になるんだけどなあ。どうしよ」  村本さんは顎に手を添え、何か考え込んだかと思うと、すぐに顔をぱっと明るくさせ僕を見た。 「ちょっと散歩しよう。天気も良くなってきたしさ」  村本さんの勢いに押され小さく頷くと、さっそく彼女は元気よく歩き始めた。 「この場所好きなのよ。程よい自然に囲まれた静かな街って感じで」 「はい。すごく落ち着きます」  僕がそう言うと、村本さんは柔らかい笑顔を僕に向けた。後方に見える線路のわきに生い茂った菜の花がきらきらと鮮やかに光っている。 「晴君」  村本さんの声が心地よい風に乗って運ばれてくる。 「玉井ちゃんのことどれくらい好きなの」  軽やかな風にずしりと重みを加えるような声だった。僕ははっきりとした答えを持っているはずなのに、その答えを言葉にするのがなぜか苦しかった。 「それは…」  喉にこぶし大ほどの石が詰まっているようだった。僕は言葉を喉につかえたまま、村本さんを見た。彼女は「ちゃんと言え」と言わんばかりの力強い眼差しを僕に向けていた。それを見た瞬間、体の底が震えた。僕は思い切り息を吸い、詰まっている声を吐き出した。 「大好きです。苦しいほど愛しています…!」  人ひとりいない静かな散歩道に自分の声が響いた。そして次の瞬間、僕の右肩に何かがぶつかり弾けた。それが村本さんの平手打ちだと気づくのに、五秒ほどかかった。 「よく言った! それだよそれ。その気持ちを玉井ちゃんにしっかりぶつけなよ!」  村本さんの満面の笑みが僕の視界を埋めた。叩かれ続ける右肩が痛みを増していくのと同時に、昨日、康介さんにも同じことを言われたことを鮮明に思い出した。大雨に打たれ振り出しに戻っていたことに気づく。いやむしろ後退していた。春から冷たい冬に逆戻りしていた。 「玉井ちゃんに自分の正直な想いをぶつけなよ。自分勝手な想いでも良い。ごまかさずに真正面からぶつけることに意味があるんだよ」  村本さんの言葉が体に染みわたり、傷を刺激する。その痛みが心を温め、前を向かせた。僕は少しの間、無言で目を瞑った。暗闇の奥に見えるのは晶乃さんの凛々しい笑顔ばかりだった。 「吹っ切れました。自分がすべきことがはっきりとわかった気がします」  僕がそう言うと、村本さんはニヤリと笑った。 「生意気なやつめ。ほんの少し前まで真っ暗な顔してたくせに」  村本さんはからかうようにそう言って、僕の肩を人差し指で突いた。本当に生意気な奴だと思う。ほんの少し前まで暗闇に迷い、行き場のない怒りをまき散らし、自ら重苦しい殻に籠ろうとしていた愚か者が、何もなかったかのように前を向いた。そんな自分を、村本さんは優しく見つめてくれている。この人と出会っていなかったらと思うと、恐ろしくなる。 「あとね晴君、今の晴君があるのは玉井ちゃんのおかげだよ。それは忘れちゃいけない。次は、晴君の番なんだよ」  村本さんの声に風が吹き、木々が揺れた。まるで森の中にいるかのような音が心を揺らす。僕は乾いた喉を鳴らし、頷いた。風の向こうで、晶乃さんが呼んでいる。弱く脆く頼りない僕を呼んでくれている。その声に全身が震え、心臓が激しく動き始めた。 「村本さ…」 「わかってる。今すぐ行くよ。さあ車に乗り込むぞ!」  村本さんはそう言うと、僕よりも先に駐車場へめがけて駆け出した。僕は負けじと、地面を蹴り上げた。目の前のカフェでは、エプロン姿の女性が看板をせっせと変えている。鮮やかな桃色の花びらが風に乗り、僕の顔の前を横切った。
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