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「今日は本当にありがとうございました」
僕は深く頭を下げた。玉井さんは狭い玄関で腰をかがめながら靴を履いている。
「いいえ。顔色良くなってきたね。良かった良かった」
彼女の笑顔が胸に突き刺さる。少しだけ寂しいと思ってしまった。
「気を付けて帰ってね」
自然と言葉が出てくる。もっと何かを話したい、そう思ってしまう。彼女の前だと、自分が自分ではないような気がした。真夏の雨が雪に変わるような不思議な感覚だった。
「もう、死にたいなんて思わないでね」
彼女は靴を履き終え、そう言った。突然の言葉に心がぐらついた。僕は「うん」と嘘をついた。彼女は僕の心を見透かすように、悲しそうな表情で微笑んだ。その表情はどこかで見たことがあるような気がした。
「今度は、玉井さんの話を聞かせてよ」
僕は咄嗟にそう言った。言わなければならないと思った。
彼女は僕の顔を見つめたまま、明るく頷いた。
「じゃあ、お大事に。ばいばい」
彼女は細い指でドアノブをひねり、そっと去っていった。
ドアの閉まる重厚な音が響くと共に、心臓が激しく動き始めた。あの麻薬を摂取した後の副作用のような苦しみが襲い掛かる。
ただ、少しだけ違うものだった。僕は部屋に戻る前に、コンロに火をつけた。残っている生姜スープをもう一杯だけ飲みたくなった。一分も経っていないのに、もう一度、彼女に会いたくなった。
部屋の生活臭に交じって、玉井さんの甘い香りがほのかに残っていた。彼女の残像を必死に追いかけようとしたが、バカらしくなってやめた。
「死にたいなんて思わないでね」
彼女の声が脳の奥で反響する。そして嘘をついた僕と彼女悲しげな表情が交互に浮かび上がった。
正直、彼女に僕の何がわかるのだ、と何度も心の中で叫んでいた。両親を亡くし、生きる希望を失くし、生まれてはすぐに死んでしまう虫のようにただ茫然と生きている奴が、死にたいと思うのは勝手じゃないか。そう心の中で叫び続けていた。
それを彼女に直接言うことができなかったのは、あの空間にいたいと思ったからかもしれない。一瞬、心の底から生きていたいと思えたのだ。
スープを飲み終えると、空のお椀には到底収まらない大きな虚無感が残った。僕は「あーあー」と声を出してみた。さっきまでの弾んだ声はもう出なかった。
ベッドの上の時計は午後七時を回っている。僕は交換したばかりの玉井さんの連絡先にメッセージを送ろうとしてすぐにやめた。
眩しすぎる獅子の陰で、一人ぼっちの山猫は小さな声で鳴いた。
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