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「今日、聞きたいことがあるんでしょ」 僕がコーヒーを一口飲んだ時、玉井さんが言った。彼女の無垢な表情が妙に鋭く刺さった。口の中に残る苦みが気分を重苦しくさせた。それでも僕は負けずに口を開いた。 「玉井さんについてもっと知りたい」 僕の言葉を聞いた彼女はパンケーキを頬張りながら僕を見た。 「やだなあ、なんか恥ずかしい」  パンケーキを飲み込んですぐ、彼女はそう言った。はじめはおどけていたが、僕の表情を見てすっと顔色を変えた。少しだけ申し訳なくなった。 「わかるよ、橘君が聞きたいこと」  玉井さんの表情が、初めて会った時に見せたあの悲しげなものに変わる。僕は黙って彼女を見つめた。アイスティーを一口飲んだ彼女が小さく息を吐く。一瞬、時間が止まったような気がした。 「私ね、親がいないの」  彼女が僕の目をしっかり見つめたままそう言った。近くに雷が落ちたような衝撃を受けた。心臓が大きく動く。声が出せなかった。 「そうは言ってもね、どこかにはいると思うんだ」 「どういうこと?」  やっと、声が出た。玉井さんの黒い瞳に吸い取られてしまいそうになる。 「小学生のころ、父が死んで、その一年後、母が新しい男と付き合ったの。その男がろくでもないやつでね。私を殴るのは当たり前、時には性的暴行みたいなことまでされそうになった」  玉井さんの声が震えていた。僕はとっさに彼女の手を握った。体が勝手に動いた。彼女の手は冷たかった。  彼女が驚いた表情で僕を見る。一瞬、悲しそうな顔を見せたと思うと、ゆっくり微笑み僕の手をほどいた。 「大丈夫。橘君もちゃんと話してくれたから、不公平なのは嫌いなの」 「無理しないでいいんだよ」 「ううん。話したいの。橘君にはちゃんと話しておきたいの」  彼女は力強くそう言った。そして曇った瞳をアイスティーに向けながら、再び話し始めた 「そのあとね、母は私を祖母の家に預けて男とどこかに消えていったの。それ以来、一度も会ってない。記憶もあんまり残ってないんだ。無理やり忘れようとしたのかもね」 ふう、と彼女が息を吐いた。僕はずっと彼女を見つめ続けた。自分が今、どんな感情を抱いているのか分からなかった。悲しみでもなく同情でもない何かわからないもやもやした感情が僕の心の中で渦巻いている。 「やっと言えた。今、すごく軽いよ」 「あの、ごめん、何の言葉も出てこなくて。」 「そんなの気にしないでよ。」 彼女は力強い声でそう言った。その声はもう震えていなかった。  僕は自然と、自分の境遇と彼女の境遇を照らし合わせてしまった。彼女は一切僕の状況とは比べずに、僕を見つめてくれているのに、弱い僕は小さく縮こまって過去を思い出していた。  そして僕はずっと胸に留めておいたことをひとつ、我慢できずにこぼしてしまった。 「死にたいと思わなかった?」  失礼極まりなく、ふざけた質問だとはわかっていた。それでも彼女は僕の目を温かい瞳で見つめてくれた。 「正直、何度もあるよ。祖母は優しくて、不自由はなかったけど、やっぱり寂しくてね。周りの幸せそうな家族を見ては死にたくなったよ。何で自分はこんな辛い思いをしてまで必死に生きているのだろうって何度も思ったよ」  僕は思わず力強く頷いてしまった。彼女がまるで鏡に映る僕のように見えた。 「でもそれって、ものすごく馬鹿げてるって気づいたの。」  彼女の言葉は僕の割れそうな心に鈍い音を立てて刺さった。彼女と目が合うと、あの日、彼女が僕に言ったことを思い出した。僕は黙って彼女から目をそらした。 「橘君はさ、どうして死にたいと思うの?」 突然、彼女が言った。僕の奥にある心理を覗くように僕を見ている。 「意味もなく生きているのが辛いから。」 僕は少し間を開けてそう言った。僕の口から吐き出された弱弱しい言葉は目の前の玉井さんにぶつかって泡のように消えた。 「死ねば、その辛さから逃げられる、生きることより死ぬことが楽だって思う?」  彼女が声の抑揚が増した。僕は頷いた。僕の心は風に吹かれて飛ぶ凧のように乱雑に揺らいでいる。考えていることをそのままそっくり見破られたことが少し悔しかった。  生きているのが辛いなら、死んでしまえば良い。両親が消えてからずっとそう思い続けながら生きてきた。 「あとは、馬鹿みたいだけど、もう一回両親に会いたい。」  強がってさりげなく言った言葉だった。それなのに、ほろほろと体の皮が捲れていくように、自分の感情がこぼれていく。視界がぼやけ、玉井さんの顔が歪んでいく。自分にも気づかれないように真っ暗な場所に隠していた想いだった。太陽のように明るいライオンがその想いを隠す闇を掻き消した。 「馬鹿なんかじゃないよ。それは橘君が一番わかっているはず。橘君のその気持ちは何よりも真っすぐで絶対に折れないものだよ。そう思うことは何もおかしいことじゃない。でもね…」  彼女はテーブルに覆い被さるように体を前に出した。水晶のように美しい彼女の瞳に僕の上半身が映っている。彼女の温かい指が、僕の手の甲に触れた。 「死んだとしても会えるかなんて誰もわからないんだよ。」  彼女の言葉は雪のようにしっとりと僕に触れ、溶けながら染み込んでいった。染み込んだ雪解け水は激流と化し、僕の体中を勢いよく駆け巡った。  そんな当たり前のことわかっていた。無理やりわからないふりをしていた。彼女の視線が僕の体に焼けるように食い込んでいく。  胸が重くなる。もう誰にも持ち上げられないほど重い僕の心は、このまま僕を地の底に沈めていってしまうのではないかと思った。  彼女の言葉は、初めて聞いた言葉ではなかった。僕の心の小さな隙間で、もう一人の僕が絶えず囁いていたものだった。  死をもってして幸せになれるなら、その確証があるのなら、この世界中の多くの人が死を選ぶに違いない。それでもみんな生き続けるのは、死は幸という考えが、危険で愚かだということを知っているからだと、心の隅で何度も言い聞かせている自分がいた。  ぽつぽつと体の中に涙の雨が降った。「死」への燃え滾る炎が、少しずつ静かに消えていくのを心の片隅で感じていた。 「我々は死によって失うところのものはよく認識するのであるが、それによって獲るところのものについては知らないのである」  玉井さんが突然そう言った。その堅苦しい文は何かの本の台詞だろうか、なぜかもう一度聞きたくなった。 「私が死にたいと思ってたときに出会った本に描かれてた言葉なんだ」 「どういう意味なの?」 やっと出た僕の声は、乾いたぼろ雑巾のように掠れていた。 「人によって受け取り方は違うだろうけど、私たちは死ぬことで失うものはよくわかっているのに、得られるものは一つも知らないってことかな」  彼女は僕の顔を見て微笑んでいる。その言葉はすっと僕の体に入り込み馴染んでいった  死の先は真っ暗で、その後の世界はどんなものかわからない。そこに飛び込むことはやっぱり愚かなのだ。心の隅でそう囁いていた僕が紙に染み込んでいく水のように、徐々に広がってくる。  父と母はその世界を知っているのだと思うと不思議な気持ちになった。死によって得られるものを知った時、どんなことを感じただろう。僕との生活を失ってしまったと思ってくれただろうか。  僕は玉井さんに情けない顔を晒しながら、じゃあ逆に、失うものは何だろうと考えた。一年前、大きなものを失った僕に、これ以上失うものなど残っているだろうか。生きることで生まれてくる埃のような汚く小さなものばかりが失われるだけなら、喜んで死に向かう。そう思った時、微笑むライオンが目に映った。そして吠えた。 「私は失いたくないものがいっぱいあることに気づいたの。夢も、何気ない生活も、自分の感性も何もかも。」  彼女の声が静かな店内に優しく響いた。真っ白な八重歯が、僕にめり込んでいくような錯覚に襲われた。  僕にもまだ失いたくないものが多くあった。バイトのメンバー、近所の親子、目に見える景色、移り変わる季節、そして目の前にある笑顔。そのどれもが僕にとって大切なものであるという事実が、背筋を伝って、心の中に伝わってきた。  もし、そのすべてを捨てて両親に会えたとして、彼らはそれを喜んでくれるだろうか。きっとそうではない。 「いっぱいあった。失いたくないもの。いっぱい、いっぱい。」  狭い喉から声が絞り出されていく。玉井さんは僕の手をしっかりと握ってくれた。そのぬくもりは、僕と彼女が生きているということを力強く表していた。彼女は僕に微笑みを向けてくれている。 「それなのに、死ぬのってもったいなくない?」  彼女がそっと言った。僕は力強く頷いた。彼女のひと言が、シャボン玉のように宙に舞い、僕の目の先でぱちんと割れた。  コーヒーのにおいがつんと鼻を刺す。忘れられてぬるくなったコーヒーを見つめる。コーヒーってこんな匂いだったのか。こんなに深く、落ち着く匂いだったのか。店に響く人々の声や食器の音はこんなに面白かったのか。僕はとっさにそう思った。  世界中のあらゆるもののぬくもりが、僕の下に戻ってきた。僕は冷めたコーヒーを飲んだ。冷めたらこんなに不味いのかと心でつぶやいた。  
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