自分

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   僕はどんよりとした表情の村本さんに小さく挨拶をして外に出た。    空には薄い雲が膜を張っていた。まだ少し明るいが、ところどころ淡い街灯が点灯し始めている。舗装が不十分の歪な道路を歩いていると、段々と辺りから自然の光が消え、人工の光の存在感が増してきた。  駅の近くの公園に差し掛かった時、公園のベンチに人影を見つけた。よく見るとそれは梓ちゃんだった。曲がった背中が、暗闇に寂しく馴染んでいた。  一瞬躊躇したが、僕はそっとベンチに向かった。 「梓ちゃん」 声をかけると、梓ちゃんは俯かせた頭を勢いよく上げた。彼女の瞼が少し腫れている。 「晴さん?」 バイト中の彼女からは想像のつかないほどか細い声が、淡い街灯の下で震えた。 「どうしたの、こんなところで」 僕がそう聞くと、彼女は僕から少しだけ目を逸らした。  次の瞬間、彼女は小さな声で笑い始めた。 「こんな安いココア一つに騙されたんです」 彼女は突然そう言った。手には缶のココアが握りしめられている。僕は黙ってココアを握る彼女の手の甲を眺めた。 「話してもいいですか」 彼女はそう言うと寂しい瞳で僕を見た。僕はそっと頷き、ベンチに座った。 「本当は私、失恋したんです」 「なんとなくわかるよ」 僕がそう言うと、彼女は小さく微笑んだ。 「大学の先輩で、すごくイケメンでみんなの人気者って感じの人なんですけど…」 そう言って彼女は一つ息を吐いた。そして冷たい空気を弱弱しく吸った。 「その人にココアを買ってもらったんです。私たったそれだけで、きゅんとしちゃって。気づいたら恋してたんです」 「イケメンの力はんぱないね」 「そうなんです。それで、何度も何度も誘ってやっとこの前ご飯に行ったんですけど、その日に、失恋したんです」 「フラれたの?」 「いや違います。その先輩がどんな人か、分かっちゃったんです。なんというか、晴さんにこの話するのは気が引けるんですけど…」 「実はある程度光枝さんから聞いてる」 僕がそう言うと梓ちゃんは大きな目を開けて僕を見た。 「光枝さんが?」 「うん。村本さんと最近梓ちゃんの元気がないって話をしてたら、光枝さんが話してくれたんだ」 僕の言葉に合わせて、梓ちゃんは寂しげな笑顔を見せた。そして溜息をつくと、手に持っていたココアをベンチに置いた。 「私、本当にバカだなって思うんです。こんなココア一つに騙されて」 梓ちゃんの声が微妙に揺れ始める。 「結局、先輩の前で裸になりました。裸になってすぐに、自分何やってるんだろうって思ったら涙出てきて。すぐに服着て家を飛び出たんです」 「それが梓ちゃんのいう失恋?」 「そうです。なんというか、自分に失恋したような気分です。そんな軽い女じゃないって思ってたのに、裏切られました自分に」 「自分に失恋って、素敵な表現だね」 「変な気を遣わないでくださいよ」 梓ちゃんはそう言って笑った。寂しさがほんのり香る彼女の笑顔はなぜか美しく見えた。 「光枝さんとか同じサークルの同期何人かに相談したときに大反対されたんです。単純すぎるって。それを無視した結果がこれです」 彼女は小さくべそをかき、俯いた。僕はすっかり暗くなった沈黙の空気を一息吸うと、光枝さんの姿が思い浮かんだ。 「光枝さん、心配してたよ」 「え?」 「光枝さんってわかりやすいんだ。梓ちゃんのことを心配しているのが表情にはっきり出てた」 偉そうなことを言ってしまった、と少し後悔する。けれど嘘ではなかった。 「私、本当にばかだなあ」 梓ちゃんの震える声が闇の中に響く。その声はもう少しで涙に濡れてしまいそうな気がした。  その時、梓ちゃんの携帯が鳴った。画面の見た彼女の顔が歪んでいく。次の瞬間には、大粒の涙を流し、顔をしわくちゃにしていた。 『梓、何か辛いことあったら俺に何でも相談しろよ』  梓ちゃんが見せてくれた画面には、光枝さんからのメッセージが映っていた。男臭い絵文字から不器用さが垣間見える。その不器用な文が、梓ちゃんの傷ついた心を優しく包んだようだった。  梓ちゃんの嗚咽が公園に響く。通り過ぎる人たちの視線が僕たちに絶え間なく注がれた。こんな時、僕はどうするべきなんだろう。いくら考えても答えはでず、ただ彼女の涙を拭う姿を見つめることしかできなかった。 「あのひとバイト中じゃん。いけないんだあ」 彼女の振り絞られた声が優しく耳に流れてくる。彼女の手の甲に塗られた涙は、闇の中でキラキラと輝いていた。
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