自分

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 携帯の画面をみると、時刻は午後十九時を回っていた。静かな空気が優しく僕たちを包む。 「再会したときの晴さんは、髭も汚くて、愛想も悪いし、会話もろくにしてくれないし、最悪だったんですけど…」 梓ちゃんの辛辣な言葉が一つずつ僕に刺さった。 「だんだん、奥に眠っている本来の晴さんが出てきてくれて、私、すごく嬉しかった」 彼女は溶けそうな表情を暗闇に隠しながらそう言った。 「それは、村本さんとか梓ちゃんとか、みんなのおかげだよ」 僕はアスファルトを見つめながらそう言った。  僕が少しずつ自分を取り戻すことができたのは、まぎれもなく、彼女をはじめとするバイト先の皆と出会えたおかげだった。 「それは嬉しいなぁ。憧れだった人の力になれるなんて、あの頃は思ってもみなかったですもん」 彼女は嬉々とした表情で僕を見た。彼女を見つめると、なぜか少し、寂しくなる。その寂しさを強調するように、冷たい風が吹きはじめた。 「晴さんから一年前の出来事を聞いた時、ああ、やっぱり晴さんはあの時と変わらず強い人なんだって思いました」 「どうして?」 「生きているからです」  梓ちゃんの声が冷たい風に沿って僕のもとに流れてくる。彼女の視線がまっすぐに僕に刺さった。 「私が晴さんの立場に置かれたら、多分生きていけないと思うんです。真っ先に死に逃げてしまう。けど晴さんは逃げずに生きた。これって簡単なことじゃないと思うんです」 彼女の声が温かく響く。僕は彼女から目を逸らした。 「死ぬのが怖い臆病者だっただけだよ」 僕がそう言うと、彼女は強く首を横に振った。 「そんなことないです。死ぬことから目を逸らした勇者ですよ。まだ人生長いのに、死ぬのってもったいないですから」  彼女の言葉が、昨日の玉井さんの言葉と重なった。梓ちゃんも玉井さんも、どうしてこんなにも温かい言葉を口に出すことができるのだろうと、心の底から感心した。 「同じようなことを言ってくれた人がいたよ」 僕は咄嗟にそう呟いた。その言葉に救われたことを心で噛みしめながら。 「玉井さんじゃないですか?」 梓ちゃんの少しほどけて緩くなった声が聞こえた。僕は驚いて、彼女の方を見た。 「え、何で…」 「やっぱり。勘ですよ。女の勘ってやつです」 気のせいか、彼女の声と表情が拗ねた子供の用だった。 「昨日、二人でカフェに行ったんだ。その時、いろいろな話をしてさ。似たようなことを言ってくれたなって思い出した」 「はいはい。そうですか。どうせ私は二番煎じですよおだ」 彼女は僕から顔を逸らし、そう吐き捨てた。 「何でそんな怒るのさ」 「怒ってませんよ」 彼女は棘の生えた声を地面に投げつけた。跳ね返った声が闇夜に弾けた。  張りつめた空気が僕たちの間に漂った。真っ暗な空気を見つめても、薄く光る足元を見つめても、気まずかった。 「悔しいです」 突然、彼女が呟いた。 「何が?」 僕は彼女の方に向き直った。 「玉井さん、私のできない事を涼しい顔でやってのけるんですもん」 「そうかな。梓ちゃんだって負けてないよ」 「無責任なことを言わないでください」 「ごめん」 彼女が頬を膨らませて怒るので、僕は咄嗟に謝った。 「私が一年かけてもできなかったことを、一か月もしないうちにやってのけるんですから、勝てませんよ」 彼女が小さな声で言った。僕は彼女の言っていることが何のことかわからなかった。彼女の背中には寂しさがまとわりついている気がしたが、冷たい空気のせいだろうと思うことにした。  冷たい風が再び吹き付けた。そろそろ体の隅から隅まで冷え切ろうとしていた。縮こまる僕とは対照的に、梓ちゃんは全く寒そうにしていなかった。大きな息を吐く彼女を見つめていると、彼女は勢いよく僕の方を見た。 「晴さん、玉井さんに恋してますよね」  いつも通りの彼女の声が、いつもとは全く違う色をもって僕の中で響いた。その言葉が、僕を震わせる。体中の血液が激しく流れ、心臓が激しく動き始めた。  梓ちゃんは笑みを浮かべたまま立ち上がった。彼女の動きがスローモーションのように見える。一瞬、音のない世界に迷い込んだ気分になった。 「あはは! すごい顔してますよ晴さん。よし、私、そろそろ帰りますね」 彼女はそう言ってベンチから立ち上がると僕に手を振りながら、足早に遠ざかっていった。僕はどうしても声が出せず、無言のまま遠ざかる彼女を見つめた。 「風邪ひかないようにしてくださいね!」 闇に消えそうな彼女が大きな声で言った。僕は高鳴る鼓動を抑えて、ベンチから立ち上がった。 「梓ちゃんもね!」 やっとの思いで出た僕の言葉に、彼女はそっと微笑んだ気がしたが、もうその頃には彼女はほとんど闇に隠れていた。  一人取り残された僕は、何度も何度も、彼女の言葉を反復させた。そして自分にその真偽を何度も確かめさせた。それを繰り返せば繰り返すほど、体が熱くなっていき、服の内側から汗がにじんでいった。  さっき冷え切った僕の身体は、一瞬にして熱くなり凍った部分が溶けていった。その不思議な感覚はどこか気持ち良かった。静寂が漂う空気のどこからか、ほんのり春の香りがした気がした。
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