自分

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「おはよー」 バックルームに玉井さんの元気な声が綺麗に響いた。昨日の夜のこともあり、身構えてはいたが、彼女の姿を見た瞬間、自然と身体が熱くなった。乾燥した肌が一気に痒くなる。 「お、おひゃよう」 平常心を保とうとしたが、開口一番で盛大に噛んだ。それを見た彼女は腹を抱えて笑っていた。 「顔真っ赤だよ」 彼女の陽気な声と共に、温かい風が僕に当たった。それはきっと暖房の風だが、違うものに感じられた。  いつも通りの時間が驚くほど速く過ぎていく。彼女を横目に仕事をこなしていると、時計の針は僕の中にあるはずの時間の何倍もの速さで動いていくようだった。 「あのさ橘君」 お昼のピークが過ぎ、店内が閑散とした時、玉井さんが突然呟いた。 「なに?」 「そろそろさ、橘君を卒業しようと思う」  玉井さんの丸い瞳にポツンと立つ僕がぼやけて写っている。彼女の言葉の意味をはっきりとは理解できていなかったが、卒業という言葉に、彼女が遠くに離れていってしまうような漠然とした不安が襲った。 「どういうこと?」  僕は唾を思い切り飲み込み、そう聞いた。僕は彼女にとって特別な何者でもない。それでも、彼女の次にくる言葉が怖くて仕方なかった。彼女はすうっと息を吸った。 「晴、って呼ぼうと思うんだけど、良い?」  僕の身体から、すうっと力が抜けていった。彼女の柔らかい笑顔に眩暈を起こしてしまいそうになる。それと同時に、体中に熱くなり、胸がぎゅうっと苦しくなった。  今自分の中に満ちた感情がどんなものかはわからなかったが、まるでポップコーンのように弾けてしまいそうだった。むしろ弾けてしまう方が楽になれる気がした。 「もちろん、良いよ」 僕はそう答えた。感情を押し殺した白々しい答え方に、何様のつもりだと自分を殴りたくなった。けれど、そうせざるを得なかった。きっと僕の顔はもうすでに真っ赤になっている。 「やったあ。じゃあ、晴も私のこと晶乃って呼んでよ」 玉井さんが八重歯を覗かせながらそう言った。 「晶乃さんじゃダメ? 呼び捨ては緊張するから」 僕がそう言うと、彼女は一瞬眉間に皺を寄せたあと、「しょうがないなあ」と小さく言った。  僕の身体はますます熱くなっていきそうだったが、お客さんが入ってきたことによりいったん冷えた。隣で接客する彼女は、白い肌を艶々させたまま、いつも通りの笑顔を見せていた。 「なんかさ、さっきのやり取り高校生みたいだったね」  接客をし終えた彼女が微笑んで言った。その言葉にわずかだが再び体が熱くなる。 「たしかに。ちょっと恥ずかしいね」 「ふふふ、さっきからずっと顔真っ赤だもんねえ、晴」  気づいてはいたが、改めて指摘されると何百倍も恥ずかしくなった。囁かれる自分の名前が耳に溶け込んで脳を刺激する。  僕は、いたずらに笑う彼女からそっと目を背けた。彼女はそれを見て小さく笑った。  夕方五時、仕事を終え、僕は晶乃さんと別れた。マジックアワーの空が寂しく広がる西の方角に向かって歩く。  雪が降った一昨日の空はもう忘れてしまったのか、彼女はあの日のことを一切話さなかった。僕の眼に残るあの日の彼女の姿と、耳に残る彼女の声、鼻に残る冷めたコーヒーの香りがチクチクと僕の胸を刺した。  家に着くと、今朝のトーストの香りが部屋に充満していた。捨て忘れたヨーグルトのミニカップから甘酸っぱい匂いがほのかに香っている。  約半月前まで、この冷たい家に帰っては萎んでいた自分を思い出す。晶乃さんと出会った日から、少しずつ変わっていった自分を記憶の中で追いかける。記憶の中の彼女は常に笑っていた。ライオンのように凛々しく笑う彼女はいつでも美しかった。  彼女の笑顔のすぐ後ろでは、死んだ両親が微笑んでいる。それを見つめるたびに、何よりも胸が痛んだ。泣くことを我慢した。そんな時、彼女の笑顔がいつでも僕を温かく包んでくれた。  村本さんや梓ちゃん、光枝さんやその他の仲間たちのぬくもりは、クスリでも偽りの物でもなく、かけがえのない大切なものなのだと、ライオンのように笑う彼女のおかげで気づくことができた。部屋で独り、ベッドに黒いしみを作ることもほとんどなくなった。  生きたいと思えるようになった。  テレビをつけると、画面に雄のライオンが街中を練り歩く姿が映し出されていた。ドイツの動物園で脱走したというニュースだった。  VTRの喧騒から「レーベ」という言葉が際立って聞こえてくる。僕は携帯の翻訳で調べてみた。するとそこには「ライオン」と書かれていた。 その時、晶乃さんはドイツが大好きだという話を聞いたことを思い出した。  テレビに映るドイツの街並みとライオンを見て、心がぽっと桃色に染まる。どうしてもこの瞬間を単なる偶然とは思えなかった。  昨日の夜に梓ちゃんに言われたことを脳で反復させる。  僕は凛々しく笑うレーベ、晶乃さんのことが好きだ。恋愛感情だけでは言い表すことのできない莫大な感情が胸の中で渦を巻いている。一方的な感情だが、彼女との日々が、僕にとって一つの大きな生きる意味になり始めていた。  気づけばテレビに映っていたはずのライオンはもうすでにいなくなっていた。その後も僕の心臓は絶えず拍動を増していった。
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