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 生温かい風が体に纏わりつくように吹いている。僕の目の前でイヤホンをしているスーツの青年は就活生だろうか、重苦しく曲がった背中から溜まり切った疲れが滲み出ている。  どこからか飛んでくる花粉のせいか、鼻がむずむずする。同時に、僕の心も啓蟄の柔らかい日差しの下でむずむずとしていた。 「おはよっ」  少し遠くから聞き覚えのある声が聞こえた。その声は静かな駅にカラカラと響いた。声の方に振り向くと、線路の上にかかる跨線橋の踊り場から一人の女性が手を振っていた。茶色のボブヘアーが温かい風に吹かれて揺れている。初めて出会った日から比べると、そのボブヘアーは少しだけ伸びていた。    周囲の人たちが、僕と跨線橋にいる晶乃さんを怪訝な表情で交互に見つめた。その多くの視線に僕はカッと熱くなる。対する彼女は周囲の視線に気づいていないのか、ニコニコとほほ笑みながら階段を下りてくる。 「何で手振り返してくれないの!」 僕のもとに着いた晶乃さんがぶすくれて言った。 「だって周りの視線が…」 僕がそう言うと彼女はぐるっと周囲を見渡した。それに合わせて、人々は僕たちから目を逸らした。 「そんなこと気にしてたらダメだよ。元気にはりきっていこう」 彼女は大きくガッツポーズをした。朝早いというのに、彼女はずっと笑顔で弾んでいる。  その姿をそっと見つめる僕の心はきっと彼女よりも激しく弾んでいる。僕はその気持ちを朝の静かな空気にそっと隠していた。ずっと楽しみにしていた日がようやくやってきたのだ。 「結局、僕たちはどこに行くの?」 「ふふふ、着いてからのお楽しみ」 彼女はそう言って意地の悪い表情を浮かべた。  三時間くらいかかることと、新幹線と特急を使うこと、少しここよりも寒いかもしれないということだけは聞いていた。両親共働きで幼い頃から滅多に旅行もしてこなかったからか、それを聞いても全く予想ができなかった。  それでも、不安や心配は一切なかった。晶乃さんが隣にいるという事だけでそういった感情は簡単に打ち消された。  小さなキャリーバックをくるくると回す彼女を見つめていると、熱が込み上げてきて、心臓の拍動が増し、涙が出てきそうになった。なんとも言えない不思議な感覚だった。  ぼろぼろのホームにアナウンスが響き渡る。 「あ、電車来るよ!」  彼女は幼い子供のような笑顔を僕に向けた。胸がグッとなる。電車がゆっくりと、高い金属音を響かせながら入ってきた。彼女は飛び跳ねるように電車に乗り込む。その後に続いて僕はそっと電車に乗り込んだ。電車の中は暖房が効きすぎていて暑いほどだった。  今日と明日、僕は彼女と共に生きる。その時間はきっと僕にとってかけがえのないものになるだろう。  今はまだ靄がかかっている自分の道を、はっきりとした光で照らしてあげなくてはいけない。そのための短いようで長い旅が今始まった。
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